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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

スピグラ・Speed Graphic 3
 スピグラはアメリカ人が持ち歩いているのを見ると大きさを感じないが、日本の新聞社のカメラマンが持っていると大きくて不釣り合いに見えた。日本人の体格からするとスピグラを使うなら4×5判よりも同じ機能をもっている名刺判(大名刺判サイズ6センチ×9センチ)のほうがよいのでないかなどと言われたが、結局、名刺判スピグラはあまり流行しなかった。

 理由は新聞カメラマンのプライドと虚栄心に関係があったと思う。新聞各社のカメラマンは、スピグラをそれぞれ写真部から貸与されていたが、大型のスピグラを持ち歩くことがステータスシンボルみたいな風潮があった。

 同じスピグラでも、一番新しいもの、一番機能がよいものを使っているのだというカメラマンの見栄のようなものだったのだろう。新聞カメラマンのステータスシンボルのようなものだったかも知れない。

 機能満載のペースメーカー・スピードグラフィックが1947年発売されると同時に、フォーカルブレーンシャッターを取り除いたクラウングラフィックが発売された。新聞各社でもクラウンをを買い入れたところもあったが、普通、報道用に使うのには機能的には劣るところがないのにカメラマンの評判がよくなくてフォーカルブレーンシャッター付きが幅をきかした。最高級品を好む日本人の好みのようなものが働いたのに違いない。

 ステータスシンボルであっただけでなく、大型のスピグラががIDカード(身分証明)の役割をした。スピグラをもっていると、スピグラ=新聞社のカメラマンということで警察の非常線を通り抜ける鑑札代わりになった。昭和20年代、催しもの、劇場、映画館のもぎり、相撲の木戸、をはじめ駅の改札までスピグラで通ることが出来たそうだ。よい時代だったですね。

 昭和30年、鳩山内閣の組閣で恒例の閣僚記念写真撮影のとき、待機している各社のカメラマンの記念撮影写真がある。面白い写真なのでこれを掲載しようと思ったが著作権の問題がクリアー出来なくて残念だが使えなかった。

 これはサンケイ新聞の写真部員が写した写真で、スミに筆者が入っている。後で写っていた全員に贈られたものだ。20人ほどのカメラマンが写っている。そのメンバーは各社の精鋭といっていいだろう。持っているカメラはもちろんスピグラだ。だれもがレンズボードが白く光っている新型のカメラを持っているのがわかる。

 写っている筆者はこの取材でスピグラを持っていってない。筆者は朝日新聞のカメラマンではあったが、出版写真部に所属する雑誌のカメラマンだったから、使う機材がスピグラだけでなく小型カメラ(35ミリカメラ、120判カメラなど)が主になることが多かった。新しいピカピカのスピグラはうらやましかったけれど、新聞写真部員ほどのこだわりはなかった。

 スピグラの機能と使い方で記憶に残っていることを書く。スピグラのようにフォーカルブレーンシャッターとレンズシャッターの両方を備えているカメラはそうなかった。このカメラはシャッターだけでなく機能的に大変な欲張りカメラで、いろいろな機能をもっていた。

 ファインダーのことを取り上げると、このカメラは大型カメラとして当然のように背面の焦点板(ピントグラス)を持っている。昔の大型カメラにはファインダー付きのカメラはほとんどなかった。三脚に取り付けてピントグラスを覘き焦点を合わせ、フレーミングをしてからシャッターをセットしフィルムを装填し撮影した。

 スピグラは大型だが、ハンドカメラだからファインダーが付いている。はじめスピグラにはファインダーはなかったようだ。最初に付けられたのはフレームファインダーだ。スピグラにはレンズボードの位置に組み込まれている金属製の枠を引き出してファインダーとした。のぞき窓は背面にあるのぞき穴の枠棒を起こして使った。

 ファインダーを覘く眼の位置でフレームは多少変化するが、慣れるとこのファインダーは正確で使いやすかった。フレームファインダーの最大の長所はフレームの外が見えることである。高級一眼レフカメラのファインダーには100%の視野率を持つものがあるが100%を越えてフレームの外を見ることが出来ない。フレームファインダーはフレームの外、人間の視野全部が見える。しかも等倍だから両目を開けて見ることが容易だ。

 フレームファインダーを使って写真を撮ったことのある人はあまりいないから、理解してもらえないが、この枠の外が見えると言うことは素晴らしいことで、フレームファインダーは使いつけるとこんなに素晴らしいファインダーはないと思う。

 スピグラにはフレームファインダーのほかに、カメラ上部に取り外しの出来る光学ファインダーが付けられていた。これは精巧なものであったがフレームファインダーに比べると見にくく、筆者はほとんど使ったことがなかった。

 あのころ各社にスピグラ名人と言われるカメラマンが数人ずつはいた。朝日新聞の新聞写真部カメラマンにもこれに該当する先輩が数人いた。名人と言われるのには、いろいろな条件があったが、なんと言ってもこのカメラマンの撮影した写真はピントがぴっちりと合っていた。

 動かないものを撮るのならば、三脚にセットし裏蓋を開けてピントグラスでしっかりと焦点を合わせるのが良い。しかし報道写真ではほとんどが一瞬だ。これに焦点を正確に合わせるのには目測ですばやく距離をセットしてシャッターを押さなければいけない。

 1947年発売の新しいスピグラにはカラートのレンジファインダー(距離計)が付いていた。ボディの右側面、フラッシュガンの取り付け金具の下につけられていた。カメラに合体して距離計が付けられるのは1950年代後期になってスピグラがトップレンジファインダーになって距離計とビューファインダーが1体になってからだ。(写真1・2参照)

 一つのカメラで距離計などをメーカーで取り付けて、名前を残しておくという習慣が合ったのかどうか知らないが、スピグラにははっきりとカラート距離計とわかるように取り付けられていた。

 この距離計は基線長が長かったから、かなり正確で距離が近くても連動して距離を合わせられた。しかしカメラマンたちはこの距離計をあまり使わなかった。人物写真で極近距離のときは使用していたが、普通の取材ではほとんどが目測で焦点を合わせていた。

 この理由の一つには4×5フィルムの使い方に特徴があった。スピグラをつかって35ミリカメラのように画面一杯で作画をしなかったからだ。人物ポートレートや、風景写真の場合はフレーミングに注意して撮るが、それ以外はフィルムに写っている画面の中からトリミングをして写真を伸ばすのが当たり前の時代であったからだ。

 ピントが正確に合っていれば、4×5(10センチ×12.5センチ)サイズのフィルムから35ミリフィルムの24ミリ×36ミリサイズまでトリミングすることも珍しくなかった。新聞写真部では送られてきたフィルムのトリミングが当番デスクの仕事みたいなところがあった。

 盛りだくさんの機能を持つスピグラであったが、使われない機能もたくさんあった。フォーカルブレーンシャッターもレンズシャッターより正確な高速シャッターが使えるのにあまり使われなかった。筆者も改めて考えてみると、望遠レンズを使うときと航空撮影以外にはあまり使った記憶がない。

 付けられている機能の中であまり使われなかったのがアオリ機構だ。レンズボードのシフトとライズ&フォールは効くがスイングとチルトは効かないいわば片アオリだったからあまり利用されなかった。風景写真で原っぱの手前の草からインフに近い遠景までを写すときにはよく利用した。筆者の場合はアオリ機構が必要なときには備え付けてあったリンホフテヒニカをつかったので、スピグラを必要としなかった。(写真3を見ていただくとレンズボードのアオリ機構の動きなどが多少わかる)

 いずれにしてもスピグラは戦後15年以上日本の新聞写真にとって大変な役目を果たしたカメラだ。1964年の東京オリンピックを境に急激に使われなくなった。しかもアマチュアカメラマンにとっては、全く関係のないカメラだった。言わば特殊カメラと言って良い。有名な割には使った事のある人が少ないカメラだった。

 ピークだった昭和30年東京、関西、九州の新聞写真記者会のメンバーは1000人いない。カメラマンの活動期間15年間とすると、各社の写真部員は定年で辞めていったり。新入社員が入ってきたりで延べ人数2000人はいないと思う。雑誌のカメラマンでスピグラを使った人のことは効いたことがない。

 日本でのスピグラ経験者は2000人以下なのだ。日本では2000人にしか使われなかったカメラ。これはやはり特殊なカメラというべきだろう。しかし、しばしば名機あるいは銘機として取り上げられるのは、このカメラへの憧れがあったからだと思う。

 筆者のアマチュア写真家の友人は15年ほど前、中古カメラ店で思いがけないくらい格安のトップレンジ型のスピグラを見つけて買った。まだ1枚も写真は撮っていないそうだ。触って眺めているのには最適、楽しいカメラだと言っている。

写真説明
写真1 昭和30年代前半、トップ・レンジファインダーとよばれるペースメーカースピードグラフィックの改良型が発売された。このファインダーはバララックスが自動補正された。
写真2 1947年以降に発売されたPACEMAKER SPEED GRAPHIC4×5にはカラート距離計がついていた。これは標準の128ミリ/135ミリ・レンズに連動した。
写真3 スピグラのアオリ機構。不完全なアオリだがレンズ前板をライズして建築物のパースペクテブを直すのに使ったが、横画面でしか使えなかった。