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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

スピグラ・Speed Graphic 1
 昭和30年代40年代、日本映画を見る機会が多かった。いろいろな映画に新聞記者と新聞カメラマンが登場した。服装ははっきり記憶していないのだが、コメディ風のアチャラカ映画でもシリアスな文芸映画でも、何故か新聞記者は白っぽいレインコート姿、カメラマンはジャンパー姿(このごろはブルゾンなどと言うらしい)に鳥打ち帽と言うのが記憶にある。そのカメラマンが例外ないくらいスピグラ風の大きなカメラを持って登場していた。

 スピグラ風と言ったが、小道具さんが用意をするカメラは大きさも外観もスピグラにそっくりなのだが、蛇腹を目一杯伸ばして、焦点距離なら300ミリか400ミリのレンズを付けるくらい延びていたので、スピグラには見えず、古めかしい戦前のカメラの印象を受けた。

 スピグラについている標準レンズは、127ミリか135ミリだった。フィルムのサイズは4×5サイズ(ほぼ12.5cm×10cm)だから、画角は35ミリカメラの焦点距離に換算すると35ミリに近い広角レンズであった。

 スピグラは木製箱形のカメラの前ブタを開き、レンズを引き出してセットする。レンズボードは前ブタについているガイドレールを伝って前に引き出される仕掛けだ。ガイドレールにはレンズの焦点距離に合わせて止める金具が付いているのだが、その突起を寝かしたままにすると、レンズボードを付けた蛇腹はガイドレール一杯まで延びてしまうことになる。

 映画に登場するスピグラのなかには本物カメラもあったようだが、その仕掛けを知らないものだから、蛇腹を延ばし過ぎてしまい超接写の位置までレンズボードが前に出てしまっていた。

 アメリカ映画でも、スピグラが画面に出てくることがあったが、日本映画に出てくるスピグラのように蛇腹を延ばしたスピグラを見ることがなかった。日本映画の監督や助手さんたちの小道具に対する考証は細かいところまで気がついて素晴らしいと思うのだが、小道具としてのカメラについてはスピグラに限らず首を傾げることが多い。

 11月半ば、富士フォトサロンで開かれたMOPAの写真展『日本の敗戦』のオープニングパーティで映画通の古い友人会った。日本映画とスピグラのことを聞いてみたら、昭和29年の最初の『ゴジラ』にスピグラが登場していたことを覚えていると話してくれた。

 戦後の日本映画に出てくる新聞社のカメラマン(何十年も前から正確には写真記者とよぶことになっているが、カメラマンとよばれる)が使用するスピグラでもう一つの間違いは、フラッシュガンがついていないカメラを持って登場するカメラマンがいることだ。

 取材現場でフラッシュガンなしのスピグラはあり得なかった。フラッシュ機能が図抜けていた。スピグラはシャッター付きのレンズを使用することによってプレスカメラとしての地位をゆるぎないものとしたと考えられるからだ。使用するフラッシュバルブはM級のバルブで光量が多く、これをレンズシャッターのソレノイド(筒型コイル)でシンクロさせていたから500分の1秒の高速シャッターでも完全に同調した。

 スピグラが報道用カメラとして使われたのは、フラッシュバルブを発光させて撮る写真の鮮明さが買われたからだ。筆者が朝日出版写真部に入った昭和29年当時新聞の取材では何を撮影するのにもフラッシュの使用が当たり前であった。

 この同調発光が完璧に近かったからスピグラが戦後の日本報道機関で使われる事になったとも言える。フラッシュ撮影以前は、マグネシュームを燃焼させて発光させて写真を撮った。戦前から戦後もしばらくこのボン炊き時代がつづいていた。

 カメラマンがカメラを構え声をかけて助手にマグネシュームを発光させる方法だ。フラッシュ以前はボン炊き3年などという言葉があったくらいだから助手を3年経験して筋の良い者をカメラマンに採用するとうい徒弟制度がつづいていたようだ。

 グラフレックス社もスピグラのフラッシュ発光撮影を大いにすすめていて、特にニュース取材ではソレノイドシンクロの正確さを宣伝していた。これは暗いところだから夜だからというだけでなく、日中シンクロも推奨している。

 スピグラの母体はフォーカルブレーン・シャッターが付いているハンドカメラだった。TOPHANDLEの名称で1912年に手持ちカメラが最初作られた、これが1927年までつづく。そのあとPREーANNIVERSARYカメラが1928年から39年まで制作される。筆者の持っている資料でははっきりしないのだだが、1947年PACEMAKER SPEED GRAPHICになってレンズシャッター付きのレンズが採用されたようだ。このレンズボードは金属製になっている。

 採用されたようだというのは、1947年以前の型のスピグラにも木製レンズボードにエクター127ミリF4.7レンズを付けソレノイド(筒型コイル)シンクロ機能をもったスピグラを何台も見てきたからだ。これはソレノイドによるシンクロが素晴らしいのを見て、後からシャッター付きレンズにソレノイドを付ける改造をしたものだろうと思われる。

 前回紹介した『GRAPHIC GRAFREX PHOTOGRAPHY』には、一発シンクロだけではなく2灯シンクロや4灯シンクロを写真入りで解説している。写真は同書に掲載されている2灯4灯の説明写真だ。

 2灯、4灯は日本ではあまり流行らなかった。新聞では1発ダイレクト発光がでの撮影が新聞社カメラマンの専売のように使われた。出版写真部で雑誌の仕事をしていた筆者は人物撮影のとき何故か2灯シンクロを使っていた。これは先輩の撮影法を見習ったのかどうかも記憶にないのだが、1発シンクロのどぎつさ、きたない影を嫌ってのことだった。

 1灯はカメラに付けもう1灯は延長コードでカメラから離して撮影対象の上部にもっていって使う方法である。1枚撮ってはフラッシュバルブを2発も変えなければいけない煩わしさがあったが、人物撮影ではこれに固執した。

 シンクロ撮影と言えば、入社してすぐ出版写真部で先輩からウィジー(WEEGEE)の写真集『裸の街』を見せられた。この写真集に掲載されている写真は一九三〇年代から四五年まで犯罪都市ニューヨークを撮っている。

 WEEGEE(Arthur H Fellig)の撮影はフラッシュ撮影の写真が多かった。一発シンクロのどぎつい表現で撮影対象がはっきりと現れ強調された写真、例えば警察の車に収容される女装の男性、信号灯にぶつかった車の事故で路上に飛び出した死体と壊れた車が写った写真などで、その迫力に驚かされた。若手の新聞カメラマンにはウィジーをお手本に写真を撮っているものがたくさんいた。

 戦後日本は敗戦国で大変に貧乏だった。新聞社がこのカメラを使いたいからといってアメリカ製の新品カメラは簡単には手に入らなかった、輸入制限を受けていたし輸入許可をもらったとしても関税や手数料などでアメリカのカタログ価格の2、3倍の値段だった。朝日新聞社写真部では、スピグラを揃えるためアメリカの通信社のお古を譲ってもらった。新品に近いスピグラもあって、外国通信社が購入したものを一月ほどで払い下げをしてもらうという方法があったようだ。

 昭和28年頃、出版写真部のスタッフが、自分用の新品スピグラが欲しくなり、業者に輸入申請をしてもらい買った値段が28万円だった。翌年出版写真部に入って入手の由来を聞いた。同僚のこのスピグラがまぶしく輝いて見えたのを覚えている。

写真説明
1947年発売のPACEMAKER SPEED GRAPHIC 4×5
 このカメラはいろいろな機構がたくさんついた欲張りカメラだった。
 カラート距離計つき。ファインダーは光学式と枠ファインダーがついていた。
 シャッターはフォーカルシャッターとレンズシャッターがついている。
 当然、専用フラッシュガンがついていた。
 完全なアオリ機構ではないがアオリがついている。
(機構などについて次号に続く)