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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

二眼レフのこと・マミヤフレックス
 前回、動物写真のことを書いた。掲載した写真『クモザルの親子』の写真説明に、使用カメラが二眼レフ=マミヤフレックスとあって、動物写真で二眼レフは使った記憶が無かったので、驚いたことを書いた。

 これは当時、二眼レフのマミヤフレックスを使った記憶があまりなかったのだが、写真を掲載している平凡社写真大全集の写真データにはっきりと書いてあるのだから間違いないのだろう。記憶などいい加減なものだ。この連載だって、うろ覚えの記憶だけで書いているからとんでもない間違いをしているのかも知れない。

 マミヤフレックスCプロフェッショナルはある時期、仕事で使っていた。中判一眼レフが出てくるまで、印刷の関係で6×6判のフイルムサイズが是非とも必要であったからだ。しかしマミヤフレックスCは発売が1957年だから、この動物園での仕事には使ってはいなかった。

 C型以前のマミヤフレックスを使っていたのだろうか。二眼レフカメラについての記憶を呼び戻していたら、マミヤフレックスというカメラを使っていたことがあるのを少しずつ思い出してきた。マミヤフレックスにはリコーフレックスIII型と同じギアで上下レンズを連動させるタイプのマミヤフレックスII型があって、そのあとほとんどの二眼レフカメラがそうであった、前板繰り出し方式の二眼レフカメラを出した。

 マミヤオートマットというカメラもあったが、私が使ったのは、それ以前に発売されたカメラだった。III型というのかも知れない。朝日新聞出版写真部デスクをしていた大束元さんがマミヤ光機の設計や宣伝の人に知り合いがいて、マミヤから新しいカメラが発売すると、大束さんのところにテストカメラが届いた。昭和32年ころ、マミヤはマミヤマガジン35という独創的なカメラを出した。35ミリカメラでレンズ部からフィルム格納部が離れて、これを交換する事が出来るカメラだった。

 このマガジンバック交換式は、カラーとモノクロをマガジンを交換することで撮り分けることが出来るカメラである。大束さんがテストで使ってみるかいと言われてこのカメラを貸してくれた。

 考えてみれば、レンズ交換のできるカメラであれば、ボディが2台あれば間に合うことで50ミリレンズがついてレンズ交換の出来ないこのカメラは、どう考えてみてもあまり利用価値は無かった。マミヤの設計の人が来たときにカメラを返却すると同時に、率直にこのことを伝えた。

 そのときマミヤの人と話をしていて、マミヤ製品は全部モニター価格、定価の50パーセントくらいでおわけしますと聞いて、マミヤフレックスを買ったようだ。動物園でこのカメラを使ったのは、新しくこのカメラを手に入れて、喜んで持ち歩いていた時期だったのだ。

 6月の始め、IPM「あきらけい」さんの紹介で、学研の「カメラゲット」編集部の下川さんとお会いした。二眼レフカメラのことをお話下さいということであった。、二眼レフカメラについては、あまり熱心な愛好者ではなかったので、ご期待のお話が出来るどうかと思ったが家でお会いした。

 一番、愛用した二眼レフはと聞かれて、仕事としてはやはりマミヤCプロフェッショナル、理由はなんと言ってもカラーの印刷が35ミリフィルムでは出来なかったこと、はじめは4×5判カメラのフィルムでなければ製版できないと言われていたが、やっと6×6判フィルムがOKになった時代であったこと。さらにマミヤCは二眼レフカメラでは珍しくレンズの交換が出来たこと、つまり135ミリレンズが使えたことであった。

 マミヤCは、1957年発売されてから1995年まで発売された長寿命のカメラであったが、私が使ったのは中判一眼レフカメラが発売され実用化されるまでの期間であったことを話した。

 このページに掲載したミレーヌ・ドモンジョ来日の写真は、東京で開かれるフランス映画祭に出席するために来日したフランスの人気女優の来日記者会見のとき撮影、『朝日新聞報道写真1960』に掲載されたカラー写真だ。『1960』には昭和54年に撮影された写真が載っている。

 末尾に写真のデータがついている。これには、6月8日 東京会館 マミヤC セコールF3.5・135ミリ エクタクロームE3 絞りF11 100分の1秒 ブルーバルブ2個同調と記されている。

 この時期には、この取材のように、カラーで掲載が予定されている取材ではほとんどがマミヤフレックスCで取材した。この取材では助手に増灯フラッシュを持ってもらっての撮影だった。記者会見の席上で2灯シンクロ撮影など、なかなか成功しなかったが、この時はうまくいった。

 下川さんは、昭和25年(1950年)から10年間正確には8年くらいか、二眼レフカメラブームで40万台くらいの二眼レフカメラが売れたこと、160機種ほどの二眼レフカメラが発売された理由は何であったのかを不思議がられていた。

 たしかにあの当時、蒲田、大森近辺には4畳半メーカーと言われるような町工場で二眼レフカメラがつくられたことは聞いていたし、同じ部品でネームプレートだけが違うカメラがあるというのも聞いたことがある。

 あの時代、カメラは若いサラリーマンの憧れであった。だからリコーフレックスが発売になったとき爆発的に売れた。一月分の給料で買えた。品物がなくてプレミアム付きで売れた。プレミアムが付いて8千3百円のカメラが1万2、3千円だった。この値段は当時やたらと発売されたローライコード型の二眼レフカメラと同じ値段であった。だからリコーフレックスだけでなく二眼レフが売れた。というよりは、リコーフレックスの人気を見てたくさんの二眼レフカメラがつくられたのだ。

 カメラゲット誌の下川さんが、いま手許に二眼レフカメラをお持ちですかとたずねた。エルモフレックスが多分あると思ったが、屋上の物置まで探しに行かないとすぐには出ませんと断った。1週間ほどして、時間が出来て屋上の物置に探索に出かけた。20年くらい整理していないものだから仕舞っているカメラを覚えていない。

 出てきました。しまい込んでいると思っていた二眼レフ、エルモフレックスではなくてマミヤフレックスが出てきた。このカメラをしまい込んでいたことはまったく忘れていた。そんなに使った記憶がないのにかかわらず。出てきたマミヤフレックスは皮のケースがすり切れ、底のミシン目が切れてしまうほど痛んでいる。この痛みかたは相当に使い込まなければ、こんなにはならないと思う。

 カメラを見て、手に触れ、動かしているうちにだんだん思い出してきた。このマミヤフレックスは何型というのかもわからないが、いろいろな撮影のとき、また出張に出かけるとき、あまり使うあてがないのに、カラーフィルムを装填して必ずバックの中に入れて持ち歩いていたカメラだった。

 記憶が薄れているのは、持ち歩いていたわりには写真を撮らなかったカメラだからだ。このカメラでは記憶に残るような写真を撮っていない。

 改めてカメラを見る。皮ケースが傷んでいる割には、カメラ本体は実にきれいだ、どこにも傷が付いていない。シャッターを巻き上げて、シャッターボタンを押してみると気持ちの良い音がする。

 このカメラはローライコードと同じセミオートマット方式だ。レンズにはSETAGAYA KOKI・SEKORーS 1:3.5 F=7.5cnと刻印されている。シャッターはSEIKOSYAーRAPIDである。

 このカメラのように、随分長い期間持ち歩いていたのにまったく記憶から外れて忘れてしまうカメラもある。しまい込んでから20年以上立つ、人間の記憶なんていいかげんなものだ。

写真説明
(1)朝日新聞報道写真1960に掲載されている『ドモンジョ来日』の写真マミヤフレックスCで撮影された。
(2)物置から出てきたマミヤフレックス