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吉江雅祥
(元朝日新聞写真出版部長)

フレーミング framing
 フレーミングとは目の前に拡がる空間から写真の画面を枠で切りとることだ。そんなことは先刻承知のこと、何をいまさらと言う人が多いだろうが、ピンホール写真を教えていて、フレーミングについて面白いことを発見した。

 毎月、私の家に集まるある写真グループのメンバーがピンホール写真をやってみたいと言いだした。私がipm.jにピンホール写真のことを書いたり、なんでも経験しておいて損をすることはないよ、などと話したりするものだから、一つやってみようかということになった。

 どんな風に写るものか試してみようというわけである。ボディキャップに穴を空けて写す一番簡単な方法を選んだ。(この方法は先月11月の連載88に書いてある)このグループはモノクロ写真を熱心にやっているものが多いが、カラー写真に専念しているものもいる。どちらも写真展を目指していて、まあ、ベテランと言ってよいアマチュア写真家たちである。

 この連中がピンホール写真を撮り始めて最初に言い出したのは、ファインダーをどうするのかということだった。一眼レフカメラをつかっているから写すものは何でもファインダーで見えるものと思っていたが、0.5ミリのピンホールではファインダーは役に立たない。

 ピンホールでは昼間、外で撮影しても露出時間は1秒以上かかるから手持ちでは撮影出来ない。ほとんどが三脚を使うことになる。さらにファインダーを通して映像は見えないのだから対象の方向にカメラを向けて見当をつけてフレーミングしなければいけないことになる。

 このグループのメンバーには以前からノーファインダー撮影を教えていたし、よく知っている撮影方法だから、ピンホール写真の撮影でもそれで撮りなさいといった。ところが手持ちでノーファインダー撮影をやったことがあっても、三脚を使ってファインダーなしの撮影ははじめてなのである。

 ノーファインダー撮影は街でのスナップ撮影などで使っているが、風景的撮影でファインダーなしにやったことはないから、なにかおかしな感じになって戸惑ってしまうようだ。

 翌月の月例講評会のときに、撮影したピンホール写真の作品を数点ずつもってきた。同じようにボディキャップに穴を開けたピンホール写真でも、一人一人写り方が随分と違ってくる。穴の開け方、大きさ、穴を開けたキャップの厚みなどで、画像の鮮明さ、写り方が随分と違うのだ。

 ふわっと、きれいにぼけて、カチカチにピントが合った最近の写真とは異なる表現に驚いたり、ピンホール写真といえば白黒写真と思いこんでいたのに、カラーで写るピンホール写真の表現に感心したり。互いに作品を批評しあっている。

 この講評会でグループの何人かが「先生ピンホール写真をやってみて、わかったことはフレーミングのことです」と言いだした。

 「先生からフレーミングはファインダーでやるのではない。空間を枠で切りとるのだが、カメラのファインダーをのぞく前に自分の視野のなかにフレームをつくる。できたフレーミングにファインダーで見るフレームを重ねるのだと何回も云われてきたが、ピンホールで写真をノーファインダーで撮ってみて、これがよくわかった」と言うのだ。

 手持ちカメラでのノーファインダー撮影と違って、対象にカメラを向けてしっかりと自分の視野上でフレーミングをしなければならない。時間的に余裕があるから何度も見えないフレーミングを確かめることになる。

 手持ちのノーファインダー撮影とカメラを三脚に取り付けてのノーファインダー撮影とでは大して変わりはないように思うがこれが大違いなのである。人間の手というものは大したもので、カメラを手に持つと不思議なくらい方向感がしっかりしていて、二、三回の撮影でかなり正確にファインダーなしでフレーミングが出来るようになってくる。三脚に乗せた場合はこの方向感が得られないから難しくなる。

 撮影後改めてフレーミングを確かめることになる。彼らがフレーミングのことがわかってきたというのは、本当のフレーミングは肉眼で対象をしっかり観て、視野上に描いたフレーミングにカメラファインダーでのフレーミングを重ね合わせるという、フレーミング理論がわかってきたという意味があるのだが、このフレーミングについての考え方がさらに発展していくことになる。

 ノーファインダーで撮影したピンホール写真を見ると、空間の切り取りが自分が考えてもいなかった空間を切りとって写っている。

 自分の眼前にある空間を切りとるフレーミングという作業はいかにカメラがオート化しようが、デジタルカメラになろうが撮影者がどうしてもやらなければならない仕事で、人間100人いれば10通りそれぞれの切り取り方あって違うのは当然のことであると思っていた。

 だから、いままで写真を撮っていて、自分では自分しかできないフレーミングをやっているつもりであったが、ノーファインダーでピンホール写真を撮ってみて、自分がやってきたフレーミングが、いかに常識的でつまらないものであるがわかった。自分が考えてもいなかったフレーミングがあるのがわかった。

 フレーミングというものは撮影者の個性、それぞれ独自の美的感覚とか造形力、養い育てられた感性のようなものが、空間の切り取り方を決めると思っていた。ところが個性などと言ったって、今までにある写真や絵画の切り取り方を真似しているに過ぎなかった。

 ピンホールカメラのノーファインダーで都会の風景を撮っていてそれに気がついた。まあー、こんなことを言い出すわけです。これはノーファインダー撮影で切りとった顔面の意外性に驚いたとも言えることです。一人が口火を切ると何人もの人がこれを言い出すわけです。

 いままで何年間も写真を教えてきて、フレーミングをこんなとらえ方で理解した人たちははじめてであった。

 フレーミングをカメラのファインダーだけでやっているとファインダーの中は見えるがこの枠の外は見えない。画面に取り込まなければいけない大事なものを、外してしまったりするが、写真は一般的には必要なものだけを画面に入れ、いかに整理するかが大切だからどこで切りとるか、かなりいい加減になってしまうことが多い。

 しっかりやったつもりのフレーミング・画面構成がどうも月並みで退屈な画面になってしまうのは、すでに月並みなってしまった写真や絵画を真似しているからなのだ。

 ピンホール写真に限らず。普通のカメラで三脚に取り付けてファインダーなしの撮影を試してみてください。

写真(1)渋谷街頭 D1xピンホールカメラで(2)の写真と同じ頃撮った スナップ 露出は1秒、三脚を使用
写真(2)ニコンF4・レンズF250mm使用、リバーサルカラーフィルムで撮った渋谷街頭でのスナップ