TopMenu


特別寄稿

私写真の時代は終わらせなければならない

廣瀬 久起(写真家)


 2001年3月19日朝日新聞朝刊の「日本の予感2001年のナショナリズム」を読んでいて、今年の木村伊兵衛賞が長島有里枝、蜷川実花、HIROMIXの三氏に与えられたことについて考え込まされた。
 19日の「日本の予感2001年のナショナリズム」では、現代の日本の内向き思考を指摘する次のようなエピソードが紹介されている。まず、カンボジア時の国際貢献熱がさめてしまって以後、海外の出来事に関心を持たない日本の若者の現状を嘆く国連ボランティアの話。「海外に行くのが怖い」という今の若者の意識を浮き彫りにしたJTBによる調査。そして、日本女子大の吉澤夏子助教授によれば、現代の若者にとって居心地の良い領域は「半径1メートルしかない」であり、討論の授業では一人称の「私」が氾濫し、個人的な体験から思考が広がっていくことは少なく、背伸びしてでも「天下国家」を論じた時代とは様変わりし、「社会と自分の関係を見る視点が欠け自叙伝のような卒論が多い」のだという。
 僕はこの「巣ごもりタイプ」、「半径1メートルしかない」の言葉から、今年の木村伊兵衛賞受賞作家の作品を強く想起させられた。今年の受賞作はまさに「半径1メートル」の作品だった。
 これらの作品は、荒木経惟氏の作品が陽子夫人の「死に顔写真」の発表以後変化してからの写真思想の流れに沿うものだと思う。
  雑誌「写真時代」から陽子夫人の死に至るまでの荒木氏の写真は、氏の意図があったかどうかにかかわらず、高度成長時代に日本が忘れてきたものを表現してきた。つまりそれまでの都市写真が、金属とガラスとコンクリートの建物、人工的なまでに美化されたモデルの姿や無機質な表情の都市住民を背景にして、ダイナミックに変貌する都市を撮ってきたのに対し、荒木氏は、開発から取り残された町並みや、決して美しいとは言えない普通の女の子や風俗の女性の生々しい表情を撮影の対象とし、ポストモダン的とも言えるテーマを秘めた作品を作ってきた。
 しかし、陽子夫人の「死に顔写真」以後、鑑賞者の視点はもっぱら荒木氏という有名人の日常生活への興味に変わり(荒木氏の意図に変化があったかどうかは分からない)、それに追従する新しい写真家を次々に生み出してきた。
 この受け取り側の変化は(荒木氏が以前から私写真を標榜してきたことから、むしろ荒木氏の写真に対する誤解がなくなったと言うことを示すのかも知れない--しかし僕は荒木氏の写真をポストモダン的に解釈することの方が心地よかった)、結局のところ、より興味深い人物の私生活の暴露であればより面白いと言う流行を作り、若い女性(女の子と言った方が良い年齢であるが)の私生活をあからさまに撮った写真が世の中の(特に男性の)興味を惹くという、当たり前と言えば当たり前の欲望を生みだし、長島有里枝、蜷川実花、HIROMIXの登場を予感させた。
 しかし、僕は、作品をつくって世に問う側が、身の回り「半径1メートル」の出来事にしかクリエイティブな対象としての興味をもたず、見る側も他人の私生活程度のことしか興味を持たない社会にぞっとする。
 同じ日の社会面「イルム」の記事で紹介されていた松田優作らの苦悩も、こんな狭い世界にしか興味を持てない人々の作る社会では解消されないだろう。
 「日本の予感2001年のナショナリズム」の中で西木正明氏は、「内向き意識」と「無力感」が覆う社会はカリスマを求める風潮が強まると言っているが、僕は、この先、勝算のない戦争に進んでいった昭和初期のような歴史が繰り返さないか不安を感じる--そう言えばその時代も私小説が流行した時代だったはずだ。
 荒木氏の写真は「写真時代」のころ、大きな世界観、普遍的なテーマを持っていた。今年の木村伊兵衛賞の三氏がこれからより大きな普遍的な世界にテーマを広げるようになるのか、新しい写真思想が生まれて私写真の時代は終わるのか、それがこれからの日本の社会を占う試金石になるような気がする。

廣瀬 久起 QZT06333@nifty.ne.jp

 3月19日の朝日新聞の記事は、ゆくゆく下記のURLに掲載されると思われますが、新聞連載の記事はかなりのタイムラグをおいてからしかウェッブにアップされないようなので、それまでは図書館などで閲覧してください。なお朝日新聞の有料記事検索を利用されている方はおそらくすぐに見ることが出来ると思います。
http://www.asahi.com/20-21c/index.html


Pages managed by ActPlanNet,inc. (http://www.apn.co.jp/)