1995/6/15 No.11 NEWS LETTER for Photo Lover

写真を取り戻せ   鳥原 学


 写真集『オデッセイ』を開く時は、自分が写真をどう見て、どう考えていけばいいのかということを捜している時が多い。それは、『オデッセイ』が単によくできた写真集であるからということではない。『オデッセイ』の膨大な写真量を目の前にすると、写真を見せることまた写真を見ることの原点とは何かと考えるからだ。 わざわざ紹介するのも口はばったいが、写真集『オデッセイ』『ナショナル ジオグラフィック』誌の創刊100年を記念して1988年に刊行された。同誌によって1世紀にわたり収集され、掲載された写真をセレクトして、分厚い1冊の写真集としてまとめたものだ。御存じの通り『ナショナル ジオグラフィック』誌はその創刊以来の、おおよそ人類が見てきた膨大な事がらをたんねんに採取し、また現在も採取し続けている。それはまさに「偉大な」としか言いようのない仕事である。しかし、この分厚い写真集が私にとって重要なのは、地誌として博物誌としてまたはそれらを包括した「歴史的な証拠」の集積だからではない。 この写真集を開くと、写真を見る時にしか持ち得ない時間と場所への距離感と、そこから来る写真の歓びを体験できるからだ。 その距離感は『オデッセイ』の編集のなされ方からくる。この写真集の特徴は、このような記録写真を集めたものとしては珍しいことに、章だてをされていないところにある(何枚かの似た写真、または同じ写真家の写真をまとめて見せていることはあるが)。明確な章だてをされていないということは、この写真集を見る人に「写真に対する理解」ではなく、ただ写真を見ることを求めているのだ。この膨大な量の写真のそれぞれにあるキャプションには最低限の事がら、「どこで、誰が、何時」撮ったのかが示されているだけだ。つまり『オデッセイ」は「言葉による写真の体系化」を意図せず「写真にたいする資料」としての「言葉」をつけて見せているだけなのだ。見る人が「言葉による写真の体系化」を手がかりとせず、膨大な量の写真を見るなら、全ての写真は見ているその人間の現在地から等距離にあることことがよくわかる。つまり、写真はその人間と同じこの現在、その場にしか存在しないのだ。その場で写真を見る目から得るライブな感覚が写真の歓びではないだろうか。『オデッセイ』はその歓びをもたらそうとする意図によって作られている。
 我々はたいてい、写真のある意図を持ったまとまり―一例えば写真集とか写真展とか一―を見る時、そこに作家性またはディレタターの意図を読み取ろうとする。そして、もちろん現実に、見せる側の作家またはディレクタ一は写真に何事かを語らせようとする。例えば「この写真は悲しみのまなざしだ……」「肖像写真は死を暗示している……」「写真は優れた都市論……」「写真における身体感覚は……」「フェミニズムとセルフポートレートは……」「モダニズムとポストモダニズムのはざまで写真は……」等々。確かに、このような言葉は写真を理解する上で、大きな助けとなるかも知れない。しかし、私はそんな「言葉」=「解釈」に少しの不満と違和感を感じることがある。ある時点から、それらの「言葉」=「解釈」が「言葉」=「文学」に変わり、写真から目の歓びを奪うことがあるからだ。それは写真自体ではなく「言葉」によって何かを立ち上げようとする意志のためだ。(だからそういった文学から写真はいつもはみ出す)。不思議なことに人は、ただ今現在の体験よりも、他人の「言葉」を信じやすい。
 見せる側が自分の「言葉」のための写真を選び出し、その意味を満足させる資料として写真を使うようになると、それらの写真は不自由でつまらなくなる(それに規定されて写真を見る方が一番つまらないが) 。写真集『オデッセイ』を開くと、写真を見ることを取り戻したいと強く思う。写真を語ることは極めて重要だが難しい。ただひとつ言えるのは、見る側も見せる側も、写真に対して誠実であらねばならないということだろう。
 それによって写真を引き寄せ、見る人と同一の地平に写真があるのだという体験をもたらすことができる言葉のあり方を、我々は探さなければならない。写真を「文学性」から取り戻すために。
書名 Odyssey
著者 THE ART OF PHOTOGRAPHY AT
出版社 NATIONAL GEOGRAPHIC
縦312mm、横258mm 364ページ、写真点数389点



「我盛(GAMORY Printによる写真展)」

 GAMORY Print ガモリーブリン卜はCLC(カラーコピー機)で出力された静電画像トナーを版画用紙やキャンバスに転写表現するデジタル情報化時代のニューアートテクノロジーです。その特徴は、
◆コンピュータグラフィックス、CD-ROM、デジタルスチルカメラ、ビデオカメラ等のデジタル画像信号をCLCで出力して版 画を製作します。
◆写真、イラスト、水彩画等、CLCでコピー可能なすべての平面が版画に出来ます。
◆CL0出力画像を転写する為、プリント用紙の大きさや厚さの制 約が少なくなります。
◆一枚からでもオリジナルに忠実なフルカラー版画が製作できます。コンピューターやCLCのキーボード操作で画像を自由に加工保存出来、再出力して版画が作れます。
◆版画用紙やキャンバスに転写する際、偽造防止策を施し(特許申 請中)著作者、所有者の利益が護られます。
◆CLCトナーの優れた耐光性がアート作品を紫外線から護ります。
◆偽造防止機能搭載CLCでは出力機の特定が出来、偽造を予防できます。  これら、ガモリープリントの特徴はCLC出力画像を版画用紙やキャンバスに転写する事によって得られるものです。また、耐光性トナーが版画やアートを褪色から護り、偽造防止策が著作者や所有者の利益を護るところから、ガモリー〔画護〕とネーミングしました。

GAMORY Printのお問い合わせ
創考舎 260 千葉市中央区蘇我町2-1078 TEL 043-266-5879 FAX 043-268-4670

1995年6月20日(火〉〜6月25日(日)すペーす小倉屋(台東区谷中
0PEN:11:00〜18:00
会場=東京都台東区谷中7-6-8 TEL 03-3828-0562
 谷中に残る江戸時代の蔵のある質屋を改装した画廊で、GAMORY Printという新しいメディアを使って、「我」を「盛る」写真家達。加速し続ける須田一政、街・時を迷走する吉村朗、ちくわ―一後藤元洋、GAM0RY Printの開発者一―石川剛、SX一70の斉藤正臣、キッチュなモノに自己をのせる高橋万里子、昭和初期の犯罪の目撃者の視点一―宮城奈巳、トリコ――宮城浩司。これら8人が江戸以来の寺町の町並みの中にある画廊で、新しいメディアを使って盛り付けるのは、いかなる「我」なのか。 参加者=須田一政・吉村朗・後藤元洋・石川剛・斉藤正臣・高橋万里子・宮城浩司・宮城奈巳(以上8名)
協賛=創考舎
GAMORY Print 
プリンター:瀬〆麻里子
間い合わせ先=〒253 千葉市稲毛区天台4-5-9
須田一政 TEL 043-255-3040 FAX 043-254-3547


アシスタント日記  高橋 明彦

 4コマ漫画(gif:34K)


around the Galleay

たかが1回のそれもグループ展ぐらいでぬかすんじゃないと仰せの向きもありましょうが……
展示終了者の弁  平井正義

 私事で恐縮だが、このたびはじめての写真展を開催した(「camera works tokyo 1995“形象”」 島尾伸三・築地仁との三人展、ギャラリー・アートグラフ '95.5.31-6.l3)。 写真は死の記憶だとか記憶の鏡だとかいうけどあんなのは嘘っぱちだね。どんな事情があるにせよ、はじめて人目にふれるときがいちばんテンションがあがるわけで、DMを手配してオーバーマツトを切ってフレームを調達してはめ込んで釘を打ってライティングを調節して……という手順のいっさいが展示を目的とする労力なのであって、展示期日が過ぎてしまえば片づけられて何も残らない努力なのだ。DMなり冊子なり展示後のプリントは残るにしても、所詮は残骸でしかない。私は作家ではないし、自分がつくった写真を作品なんていうご大層なものとも思っておらず、写真は私がさしあたりの制作をおこなったという点でしか私自身とかかわらないものだと思っている。さらに、制作する立場と制作物を展示する立場はまったく別のものだとも思う。それでも、写真ははじめて発表されるときが最高に脂が乗る、いわば旬なんで、展示の終了と同時に寿命がつきてしまうのだという気がする。あとは残るにしたって歴史になるしかない。冷凍されたナマモノだ。制作者にしてみれば終わったことなのだ。写真てのはは かないものだと思う。
 しかし、感傷に用はない。過ぎたことに興味もない。ここでいいたいのはもっと一般的な問題だ。それに、特定のごくわずかな相手しか想定していない記述でもあることだし、写真の内容やら写真展の委細をくだくだ説明する必要はどのみちなかろう。今回感じたのは、写真展を開くというのはみずからの意図を思いえがいたとおりに実現することではない、ということだ。さまざまな現実的な条件に制約されてかならずしも意のままにはならないし、それが好結果につながりうる、ということももちろんある。だがそれよりも、ほんとうにおもしろいのは、予想だにしなかった反応が思いがけない方面からもたらされることにあるからなのだ。
 われわれのふだんの会話にしても、まえもって予想したとおりにはなしが流れるのがおもしろいわけではまったくない。また、単なる情報交換が楽しいのでもない。会話の途上で既知のことがらが結びついて思いもよらなかった相貌を呈したり、お互い気づかなかったことが、話している過程で突然視野が開けるようにあらわになったりといった驚きがもっとも楽しいのだと思う。今回の写真展でも、意図が通じればうれしいし、予期したような反発が返ってくればそれはそれ で満足だ。「こんなのは写真じゃない」といった反応も当然でるだろうと思っていたのだが、残念ながらそういう評価をくだす人はあえてわざわざ面とむかって非難しはしないのだ ろう。ともあれたいがいの評価はおおむね予想の範囲内である。
 しかし、他人はいざしらず、私が期待していたのは、思いもよらなかったような見かたが提示されることだ。自分の写真が席捲されるような解釈こそ、何より待ちのぞんでいたも のである。たとえば、今回の私の制作物を見て、万華鏡をもってくればよかったといった人がいた。これは写真の、私が 予期しなかった何らかの可能性を示唆する発言だと思う。彼女は内藤忠行「桜」のようなものを指していたのだろうか。ディテールの無限反復という可能性を見たのだろうか。画面全体のフォルムを要素に還元してパターン化することでさら なる平坦性を獲得する方向が予告されているのだろうか。今度万華鏡で見てみるとしよう。ある人は写真が動いているといった。フラットな光線状態で、制止した対象を1分前後もの 露出をかけて撮影した写真のどこが動いているのだろう。当のイメージが動いていればおもしろいだろうとか、動体を喚起させるからおもしろい、といった含みではないという。書の動きとも別のものだという。何だろう。ほんの片言隻語でしか示されえないだけに考えさせる。かならずしも意識的に表明されたのでないにせよ、ある触発の種子を蒔いてくれるような応答というものが、ごくまれとはいえあるものだ。
 展示とは村上慎二氏がいうような「確認行為」なんぞではない。プリントを壁面に並べてみたらどうなるのかまるで見当もつかなかったし、プリントのマッティングもする機会がなかったので、写真がどう変わるのか興味があったし、ガラスをとおして、ハロゲンランプをあてて見るというのも試してみたかったし、印刷すればどうなるかも気になっていた。すべてがはじめてだったわけで、結果のいかんがどうあれ、自分の制作物が多くの新たな発見を与えてくれた。プリントはすみずみまで見ているつもりだったが、印刷してもシャドウがつぶれないのはどの焼きか、などという見かたはしたことがなかったからだ。少なくとも私にとって今回は確認行為ではなかったし、今後そうなってしまうようでは味気ない。事前のシミュレートとの異同を確認するだけなら、いったい何がおもしろいというのだろう。だが、最大の関心事は他人がどう見るかだ。評価よりむしろ、自分の制作物にとんでもないものを見つけてくれるのではないかという期待なのだ。意表をつく見かた、はっとさせるような反応は何よりうれしいものだ。
 だから、写真展をのぞいていいたいことがあったら、どんどんいうべきだ。何しろ、いまどきつくり手にじかに感想がいえるのは、画廊と大衆食堂のカウンターと流しがでる場末の飲み屋くらいなものだ。ホコ天のストリートパフォーマーでさえ、このごろは親衛隊がついたりで通りすがりのもんには洟もひっかけちゃくれないそうだ。人前に制作物をさらしてその場にうろついている以上は、たいていは何かをいってもらいたがっている。否定的な見解であれ、身内以外から与えられる解釈が、次なる制作をもたらさないとは限らない。誰もが率直さを望んでいるのだ。もののいいようというのもあるだろうけどさ。
写真展パンフレット
『camera works tokyo−12 形象』¥1.000 
Mole、ギャラリー・アートグラフで発売中


Look at me!

ダイアン・アーバス 1923. 3 〜 1971. 7【11】
愛を求め、世界を吟味し、写真に生きた写真家ダイアン・アーバスの言葉で綴る物語
構成 橋本有希子

アランも知っているが、アレックスと2、3度寝たことがある。深刻な関係ではなく楽しみのためで、独占欲を超越したかったから。アレックスは友人としては大好きだが、恋愛につきものの思慕の苦しみはこれっぽちも感じなかった。反対に私とアランは心から愛しあっており、その愛は永遠に変わらない。二人のロマンティックな愛。情熱と血のたぎりを信じている。しかし、自分の中の愛と情欲の不断の葛藤、欲求と不安の不断の葛藤を調和させられない。セックスは極めて重要なこと。アランとしじゅう愛しあっていることが自慢。それでもよその夫婦がベッドで何をしているのかを知りたくて、友人逮の性生活について質間をしている。わいせつなことや性交それ自体ではなく、臨床的な事柄と性の二元性や葛藤やあいまいさ、つまり性的な役割演技に興味がある。この問題を扱った本も読んでいる。「男らしさ」と「女らしさ」は超越的現実であり、異性は神秘的で、底知れない。

暴行された女友連が羨ましい。そのような処罰、辱めを味わってみたい。それは殺人にも等しい。女性の本性と肉体の殺害。ただひとつ違う点は、その女性がその後も嘘をつきながら生きていくこと。

やっぱりアランを愛している。アレックスとの情事は楽しかったが実験のようなものでしかなく、アランとの結婚生活とはかけはなれた次元に属するものだ。

別居していたアレックスとアンは離婚した。アンはかなり前から健康をそこね、度々鬱病の発作がおき、病院で過ごす日が多い。
二人の娘メイは、知人の家を転々とした後、わが家へ来た。メイは自分を不幸だと感じている。家族と家から切り離されて、よりどころを失い、どうしていいかわからないようだ。時折、心の中に沸き上がる怒りと困惑をぶつけてくる。そのたびに彼女の気が静まるように言葉をかけてあげる。
アレックスは私たちに会わずにはいられないらしく、よく訪れたが、気詰まりな雰囲気になることも多い。

◆1951年
アレックスから愛する女性を見つけたと聞かされ、しばらく動揺した。その女性の名はジェーン・ウィーンズロー。アレックスは、ジェーンに出会い、酒と煙草をやめた。
2人の男に愛されるのはとても素敵なことだった。それが本当に終わってしまうのはとても残念。

ジェーンがアレックスと訪ねてくるたびに、彼女の写真を撮る。美しい。ファッションモデルになったらいいのに。私たちに好意を持ってくれてはいるようだ。でも過去の話が繰り返されると不愉快そう。「過去は忘れて現在に生きましょう。」とジェーンは言い、例のテーブルの4本目の足になることを拒んだ。すべてを分かち合うなんてできないというのが彼女の言い分。ジェーンの立場は認めるが、彼女への立ち入った質問はやめない。あらゆることについて、どんな感じがするか知りたい。

ジェーンの登場によって私たち3人の関係に微妙な変化が生じている。昔とは違う、距離を保った新しい友情が。

◆1951年6月
エリオット夫妻とティナとリックのフレデリック夫妻と一緒に、アディロンダック山地へ。アランは崇拝する写真家のスティーグリッツが何年も前からジョージア・オキーフとそこで夏を過ごすジョージ湖まで足を延ばしたかったらしい。


編集後記

 編集同人
  谷  博
  鳥原 学
  村上 慎二
  平井 正義
  橋本有希子
  中島恵美子
  佐藤 正夫
  野嵜 雄一
  高橋 明彦

 Renaissant (ルネッサン)第11号をお送りします。第1号から連載が続いているLook at Me ! ダイアン・アーバス伝記(橋本有希子構成)は、いよいよ佳境に入り、ダイアンが女性として円熟してゆく時代が描かれています。常識や慣習に囚われない自由な考えと生き方、これから彼女の芸術的真価が花開いていくことになります。
 写真雑誌“CAPA”、“日本カメラ”にRenaissantが紹介され、申込みが殺到していますので、ご購読については右のように決めさせていただきました。よろしくお願いします。 (tan)

Renaissant 原稿募集
写真展評、書評、エッセイを募集します。
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