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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


5章

 中平卓馬は今もなお写真行為を身体化し、写真と共に生きているであろう。そのこと自体感動的である。しかし、私はどうしてもあのすばらしくも恐ろしい日記のなかに「撮影する」という動詞がなかったことを素通りするわけにはいかなかった。私は3章で写真家にとって重要なのはシャッターを切ることだと書いたが、この日記からは、その部分だけがすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。
 『Adieu a X』以降、網島の中平の自宅に散らばった写真を見た大竹昭子が「構図などを考えずに見たまま望遠レンズでとらえられている。はじめてカメラをもった子供が撮ったような、まったく作為のない、その意味でこれ以上ふつうになりようのない写真だった」(※73)と感想をもらしていた。これらの写真はかつて中平が『決闘写真論』で願った受動的な行為の結果としての写真であって、彼が子供のような純化されたまなざしを獲得したアノニマスな存在となり、匿名性を獲得したことを意味するであろう。そして、アジェのように観客を求めずに撮影行為を持続することによってこそ、写真が写真たる力を発揮するのだということであるかもしれないが、これらの写真にはかつて『来るべき言葉のために』にあったような衝撃力はなく、あの中平卓馬の写真だといわれなけば分からないような「ふつう」の写真である。「かくも長き不在」の記憶喪失の男のように、理由はわからないけれどなぜだか写真を撮っているというような、中平が生きた痕跡としての「行為」だけがあるのである。中平は行為としての写真を獲得した瞬間、表現としての写真にも「あばよ」と別れを告げてしまったように見える。昏倒する前、ちょうどアジェやエヴアンスについて語っていた時期の中平の言葉がある。

 表現は無力である、にもかかわらず表現はなおかつ存在する、その逆説的な一点にしか表現の存立しうる基盤などありはしないのだ。(※74)

 中平はアジェやエヴアンスの写真の中に受動的なアノニマスな視点を発見したと同時に、やはり彼らの強烈な「作家的なるもの」にも触れていたように感じられる。そして、『新たなる凝視』や『Adieu a X』には『来るべき言葉のために』とは違うものの、作家的なるものが感じられた。しかし、『Adieu a X』で「これが私の最後の写真集になるだろう」と宣言した後、つまり観客を求めなくなった後の中平の写真は、匿名性を獲得し「ふつう」の写真になってしまった。もしこれをあの植物図鑑写真であるとするならば、それは実現されない限りにおいて光り輝くものであったにちがいない。
 あの日記で中平が「撮影する」という動詞を書かなかった、いや書けなかったのは、写真家である中平卓馬にとって「撮影する」ことは「起きる」「食べる」「寝る」などというオートマチックな行為などではなく、日記にかけないような何かであったのだ。それを「表現」と呼んでいいのかはわからないが、「撮影する」ことは中平にとって生理的で、受動的な行為ではなかったに違いない。なぜなら、写真家にとって(いや、すべての人にとって)完全に受動的であるとは、「透明な写真」でできた現実空間の中で、自分の身体に触れにくる光に対し何もせず、あたかも触れにきていない(見ていない)ように生活することであるからである。
 眠いから寝る、眠くないから起きる、空腹だから食べる、撮影したから現像するのである。しかし、「撮影する」の動機は一体何か?一体なぜ撮影するのか。私にはそれが何かを言葉にすることはできないけれど、それが完全に受動的な行為ではないとだけはいえる。写真集を出していたころの中平の撮影行為はオートマチックな完全に受動的な行為ではなかった。それゆえに、『新たなる凝視』にそえられた日記からは「大切な動詞」がぬけ落ちていたのではないだろうか。撮影することとは、中平にとって新たなる自己を表現するような特別な何かであり、オートマチックな生理的行為ではなかった。それゆえにほかのオートマチックな動詞とは並べることができなかったのではないだろうか。そして、『新たなる凝視』、『Adieu a X』の後、もし今も中平が日記の続きを書いているとするならば、そこには「撮影する」という動詞が書かれているかもしれない。もしそうなら、それは中平が「撮影する」という行為までも、ほかの動詞と同じように身体化してしまった証なのであり、そのことは中平の部屋に散らばった写真(中平の「近作?」)が痛ましいくらいに示しているのだといえるのかもしれない。 写真表現に別れを告げることによって、確かに中平はアノニマスな存在になったが、残念ながら中平の写真はアジェやエヴアンスのそれとは似ていなかった。私には撮影行為があまりにも彼の生と接近しすぎたために、能動的行為としての撮影を失ってしまったように思えて仕方がない。『Adieu a X』以降の中平にとって写真とはまさに生きることそのものであった。しかし、オートマチックに持続する「行為」によってのみ撮影された写真は(もしそれが中平卓馬によって撮影されたものだと知らされなければ)それを見るぼくらにとって「無力」でしかなかった。中平卓馬の部屋に散らばった大量の写真群は、写真そのものではなく「あの中平卓馬によって撮られた」という事実のみによって支えられているのである。確かにそれらがあの中平の写真であるという事実はわれわれを突き刺すが、中平がどのように自己や写真と格闘したのかというのは写真の「枠」の外での話であって、写真自体には定着されてはいない。従って中平の「生の痕跡」は不可視であり、あの中平を知る者意外には見えてはこないのである。
 中平は真の表現とは「日々を生きつづけ、みずからの新しい生を日々獲得していくことである」(※75)と語った。そして、確かに中平はその領域にいる。しかし、真の表現とは果たして表現であったのか、私には中平が表現を超えたはるかかなたの地平まで到達してしまったように思えてしかたがないのだ。

(註)
(※73)
『大竹、前掲書』 p.66
(※74)『アサヒカメラ』1975年 月号より「新説写真百科」p.77「状況―(一)」
(※75)『アサヒカメラ』1975年 月号より「新説写真百科」p.77「観念―(二)」
「同時代的であるとは何か」の中でも中平は「ぼくは記録をぼくらが日々生きてゆくその中から生まれ出てくるものだと考える」と語っている。 p.166