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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


第4章

[1]カメラになった男

 かつて中平は『PROVOKE』一号に掲載されたある写真(<都市へ>に収められた伊豆の海の写真)を見て、「世界はこういう風にあるんだよな」(※54)と述べたという。その写真は高梨豊によって撮影されたもので、湾に伸びる一本の防波堤をロングショットの俯瞰で撮ったものであった。防波堤は水平線の彼方まで打ち寄せる波でそのほとんどが水面下であり、満潮の海を楽しんでいるのか防波堤には水着の人間が何人か立っている。海の割合に対して、防波堤と人間たちの占める割合はあまりにも小さく、海面に反射した光と高梨特有の白く淡い焼きつけによって、今にも消え去ってしまいそうな像が定着されている。
 海に向かって伸びる一本の防波堤とロングショットで捉えられた人間のモノクロの映像はリュミエール兄弟の『海水浴』を思い出させる。『海水浴』は海に向かって伸びる飛び込み台から何人かの子供たちが飛びこんでは戻ってくるといった姿を淡々と捉えたものである。長谷正人はこの何気ない子供たちの海水浴の光景を見て、絶対的な寂しさのような感情に襲われるのだという。(※55)そして、それはカメラという非人称的な機械によって捉えられた光景であるゆえに親密さを欠いているのではないかと述べている。カメラにとって背景で無愛想に波打っている海も子供たちもどちらも同じように光線を発している物質にすぎず、カメラはその両方を等価に捉えるだけである。人間などいようがいまいが海は変わらずに波打つであろうし、カメラは目の前の光景を写し続けるだけだろう。長谷正人の言葉を借りれば、カメラによって捉えられた視覚世界は「人間世界への絶対的無関心」を胚胎させてしまっているということだろう。そして、もしそこにカメラなどなければ、水面から発せられた光は撮影者にもカメラにも遮られることなく通り過ぎていったことだろうし、光がもう少し強ければ像など消え去ってしまうだろう。自然(世界)は本質的に非人間的であり、自然の行う自動筆記的な現象である写真は時に人間への無関心さを露呈させてしまう(多くのアマチュアカメラマンたちは高度の撮影技術によって対象に無関心なカメラ的視線を覆い隠す事に懸命になるだろう)。記憶喪失後、撮影を再開した中平が沖縄で撮った息子(元)の写真(※56)はアマチュアカメラマンたちによる子供のポートレイトのような親密さは感じられず、むしろあまりにも写真的性格を有してしまっているといった方がいいのかもしれない。中平は海岸で犬と戯れている少年(元)をのぞきこむようにして撮影しているのだが、そのあまりに素直な撮影態度によっていくつかのリュミエール映画のようにまるで撮影者不在のカメラだけが撮影しているかのような印象を与えられる。かつての中平の写真には人間は枠によって切り取られ、あくまで断片として定着されていたし、その時その場所にいたであろう「中平卓馬という撮影者」を強く意識させるものであった。しかし、記憶を失った中平が自分の子供さえ認識できないほどの「空っぽ」の状態であったせいか(※57)困惑の感情も親密さの感情も読み取れない非イクイヴァレント的(あるいは空っぽという意味ではイクイヴァレント的)なこの一枚の写真は、リュミエールの『海水浴』や高梨豊による海の写真と同じように、自然の「人間世界への絶対的無関心」とカメラの機械的なメカニズムを残酷なまでの明白さで露呈させてしまうものであった。そして、それはかつて中平を「世界はこういう風にあるんだよな」いわしめたものであったのかもしれない。

 自然は全く非人間的、つまり人間とは無関係である。その無関係ぶりは徹底しているから、自然がどれほど残酷でも、それは犯罪ですらない。自然とは、我々にとって本質的に克服し、拒絶しなければならないものである・・・・なぜなら、なるほど我々はあらゆる極度の陰惨さ、残酷さ、悲惨さを身につけてしまっているが、なお一片の希望を生むことができ、その希望は我々とともに生じたものなのだ。それを愛と名づけることもできるだろう(本能的、動物的の哺乳類の育児関係とは無関係の愛)・・・・こうしたものを自然は全くもたない。その愚鈍さは絶対的である。(※58)(『写真論/絵画論』ゲルハルト・リヒター)

 シャッターが切られることによって、カメラは対象から触れにくる光を受け止めるが、持続する光は止められ、断ち切られることによって撮影者には届かない(対象→カメラ/撮影者)。しかし、中平は「強固に確立された自我」を消し、自らの身体をカメラ(空っぽの暗箱)化することによって、この境界面を消し去り(対象→カメラ=中平)、対象(息子)から触れに来る光をカメラとなった全身で受けとめ、定着することに成功したというのはいい過ぎだろうか。この沖縄の写真は人間的(主観的)な視線などよりもはるかに深い愛情に満ち、目の前の世界をありのままに受けとめる受容的なまなざし(※59)(中平の「カメラの視線」)に触れにきた「光の痕跡」であったということを忘れてはならないだろう。

[2]『新たなる凝視』と「新たなる生」

 昏倒以前の71年、中平卓馬は森山大道との対談(『写真よさようなら』所収)で、日記を書き、一日一枚の写真を撮ることをはじめたいと語ったが、70年代半ばには「手の痕跡」を否定することによってシャッターボタンを押す自らの手をも硬直させ「かなしばり」にあうこととなる。そして篠山紀信との「決闘写真論」により、写真を撮る力をもう一度取り戻し、かつて「私は写真家である」と宣言したように、写真家という場所に帰ろうとしたのだった。そして昏倒・・・。中平はほとんどの記憶を失い、彼の武器でもあった言葉の回転を失った。しかし、昏倒以前「かなしばり」状態であった中平の昏倒後の日々は、意外にも写真を撮ることから始まった(沖縄での撮影旅行)。写真が撮れなかった事を忘れたのか、写真を撮る事だけは忘れなかったのか、あるいはその両方なのかは分からないが、「すべてを忘却してしまった」彼「自身の止むを得ぬ行為」(※60)であったのだろう。最初の動機としては中平夫人(鐐子)がリハビリテーションの一環としてやらせたのだといわれているが、写真を撮ることによって記憶と言語を少しずつ回復していく中平は以前彼が述べた通り、まさしく日記をつけるように写真を撮り続けていく。昏倒を経て中平の写真活動はいっそう精力的になったのである。そして、写真装置4号に中平によるモノクロ写真12枚「写真原点1981」と彼自身による短い文章が掲載された。

 私ようやく必要な文章を書くことが可能になりましたが、先ず何よりも、私が写真家で在る、と言うことに固執し続けて居ります。その一点を、私、放棄することは、まったく不可能です。正にそれ故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家で在る一点で在る、と思考し抜いております。(※61)

 これは中平による二度目の(昏倒後中平にとっては一度目であるが)写真家宣言であり、全身写真家としての強い決意であった。この一年後に二度目の写真集である『新たなる凝視』が刊行される。その中に「中平卓馬写真日記1982・8・1〜8・31」が収められていた。これは昏倒後日本語を喪失し、スペイン語(※62)を呟くのみであった中平が再び日本語を取り戻すために書き残した日記である。引用が続くが、ためらわず引いてみたい。

8月1日
 昨夜からストレートに眠り、午前6時31分、私目覚めた。私、トイレに行き、TELで少し進行しすぎている時計的確化し、6時53分もどった。それ以後全く眠れず、私6時31分近く覚醒。昼寝極力阻止!!妻、鐐子9時10分覚醒。元君、彼女の後、覚醒。父、「母」かなり前に覚醒。父、「母」朝飯を食べ上げていた。私、妻、鐐子と共に10時56分から朝飯を食べ始め、私、元君、彼女と同時に食べ上げた。昨夜、現像し上げ、水洗しておいた作品5枚、11時41分から乾燥し始め、午後12時7分乾燥し上がった。作品3枚現像し直さねばならぬ。父、「母」かなり前に昼飯を食べ上げた。私、妻、鐐子と共に1時24分から昼食を食べ始め、私先に食べ上げた。5時29分、私風呂に入った。父、元君晩飯を食べ上げた。私、妻、鐐子と共に6時32分から晩飯を食べ始め、元君の次、私食べ上げた。7時33分から私、作品現像開始。9時40分近く、姉、みど里帰宅。9時50分、作品5枚水洗に廻した。明朝、全作品乾燥し上げよう。11時50分だ。父「母」のみ寝てしまった。強風と大雨が降り続けている。(※63)

 これは赤瀬川原平を「人間が生きているという存在感に、これほどの至近距離にまで近づいた文章があるだろうか」(※64)といわしめた日記であるが、それは中平が起床(覚醒)、食事、就寝の時間を執拗に繰り返し、毎日記録したゆえではないだろうか。そして、起きる、食う、寝るということが裸の状態で機械的なリズムをもってつづられていたからであろう。なにも中平が機械のように非人間的に毎日を過ごしているなどといいたいわけではなく、むしろその逆である。日記の内容は毎日ほぼ同じであるが、果たしてわれわれの毎日というのもこの日記とそれほど大きな差があるだろうか。毎日起きて、食って、寝る。人間の生活など所詮この反復であるような気がしてしまう。かくいう私も毎日この三つの動詞の繰り返しである。そして、それが生きるということのように思える。しかし、中平のこの日記において特筆すべきは「現像する」という言葉がこの三つの動詞の間にあたりまえのような顔をして入ってくることである(この日以外にもなぜか「撮影する」という動詞は見当たらない)。「起きる」「食う」「寝る」とまったく同列で「現像する」が語られていて、まるで生きていくうえでの最低限の動詞であるかのような印象をうけてしまう。もはや中平にとって、生きることと写真行為が不可分に結びついてしまっているのである。荒木経惟は「仕事」は「私事」である、といったが、中平卓馬においては生きることと写真を撮ることが同義になり、カメラとともに昏倒後の日々を生き抜いてしまっている。昏倒による中断によって『新たなる凝視』には『なぜ、植物図鑑か』というタイトルがつけられることはなかったし、植物図鑑としての写真でもなかったかもしれないが、ここに収められている写真は「新たなる生」としての、まさしくかつて中平が願ってやまなかった「生の記録」としての写真であった。

[3]『あばよ、X』:写真の臨界点へ

 大竹昭子による『眼の狩人』の中に、中平の入院中に看病し、リハビリを助けてきた大学時代の親友である内田吉彦の言葉があった。彼によれば昏倒時、中平は普段より酒を多く飲んだわけでもなかったのに、それがなぜ記憶喪失という形になって現れたのか分からないのだという。そして、彼には中平が病気を迎えにいったとしか思えないというのである。(※65)
 また、西井一夫は『決闘写真論』の後の中平の昏倒について「彼もが、ただの写真家になり果てんとしたその時に、あたかも殉教者を救う天命のごとくにやってきたように私には思える」(※66)と語っている。篠山のように写真が虚構であるということを図太く受けいれて「ケセラセラ」と写真を撮り続けることができなかったのが中平であり、(※67)写真の苦悩を自らの身体をもって引き受けてしまったのであった。そして、昏倒後の中平にとって、もはや写真は虚構などではなく生きることそのものになったのである。
 中平卓馬という写真家はカメラという両刃の剣を持って激しく現実と擦過しながら「写真家とは誰か」「写真とは何か」といった結論のない題目に果敢にも闘いを挑み、難攻不落の問いに挑むドンキホーテのような身振りを終始やめることなく疾走し、傷つき昏倒した。そして、そこからの生還と復活により、彼はある種の聖性を獲得してしまったように見える。かつて中平自身が論じたアンリ・コルピの映画「かくも長き不在」(※68)の記憶喪失の主人公と昏倒後の中平の状態が重なることから、予言めいた印象も受けなくもないし、彼の30キロ(?)の肉体(※69)は彼の神話化を補完するには充分のようにも思われる。そして、中平のたどり着いた地平は表現の域を越えるものであったし、誰も彼のいる場所にはたどり着けないだろう。しかし、われわれは中平個人を神話の人、伝説の人として、つまり「中平卓馬という風景」として文化の内側に回収してはならないし、中平自身もそれを望まないだろう。写真家中平卓馬は「風景化」されてはならないのである。

 私、今日、素朴な写真家にまいもどりました。だが、私、素朴な写真家にまいもどったとしても、新たに現実世界に出会った時には、自意識が解体され、自らの意識を新たに造り上げねばならぬ行為そのものが、無限に課せられてくるそれは、ある意味において、写真家である私のさだめであろう。(※70)(『文藝』1986年春季号「撮影の自己変革に関して」より)

 中平は『Adieu a X』の終わりに「これが私の最後の写真集になるだろう」と記したが、『Adieu a X(あばよ、X)』とは自分の見知らぬ昏倒以前の自分(X)に別れを告げ、現在の自分を受けいれて前進するという決意表明であった。その後も、まるで自らの生と世界を肯定するかのようにシャッターを切り続け、「写真家中平卓馬」は臨界点に達してもなお彼自身によって更新され続けている。そして、この不断に更新される新たなる生を中平は“Short Hope”と名付け、こう締めくくっている。

 私、毎日、“Long Hope”ならず“Short Hope”を吸い続けています。それに即して言えば、写真、撮影行為においては、一挙に、世界総体を把握することが出来ず、日々、短い希望なのだが、それに依拠して、私、世界を全的に捉えることを願いつつ、生き続けています。(※71)

 中平卓馬はアジェとエヴァンスと篠山によって再び写真に引き戻されたのだと語ったが、すべての写真家は中平卓馬に挑発され、出発の場所である「写真とは何か」という問いに絶えず引き戻されねばならないように思う。そして、写真に関わる者にとって「中平卓馬という存在」は常に同時代的であり続けるだろうし、すでに死につつある写真にとって“Short Hope”なのだろう。(※72)

<註>
(※54)
大竹昭子『眼の狩人』(新潮社)1994 p.145
(※55)長谷正人『映像という神秘と快楽』(以文社)2000 p.3
(※56)病気後、妻と息子とともに訪れた沖縄の写真は『アサヒカメラ(1978年12月号)に掲載された。
(※57)「ここはどこ?わたしはだれ?」という記憶喪失者の言葉は、アイデンティティを失ってしまった空っぽの身体を象徴するだろう
(※58)『写真論/絵画論』ゲルハルト・リヒター、清水穣訳(淡交社)1996
(※59)長谷正人は『映像という神秘と快楽』(以文社)のなかで無関心なカメラ的視線をこの世界をすべてありのままに受け入れようとする慈悲深い視線であると表現した。
(※60)『新たなる凝視』の冒頭に「私の写真は ほとんどすべてを忘却してしまった 私自身の 止むを得ぬ行為だ」と記されている。
(※61)『写真装置』4号 特集「風景写真』 p.179 
(※62)「中平卓馬写真日記1982・8・1〜8・31」中平の文章から「私は」という言い方が消えてしまったことから、西井一夫は「一度中平の中で私というものが消えてしまった痕跡」であるとし、この「非人称の私」がかつて中平があれほど欲したアノニマスに極めて近いのではないかと指摘している。
(※63)赤瀬川原平『カメラ毎日』所収「中平卓馬からの尋問」1983年4月号
(※64)赤瀬川原平はその原因を「ブレボケの風化によるオリジナリティーの喪失」に認めている。(「中平卓馬からの尋問」『カメラ毎日』1983年4月号)
(※65)大竹、前掲書 p.77
(※66)西井一夫『暗闇のレッスン』(みすず書房)1992 p.125 西井はこの昏倒の原因を「写真家であることの意味」への執拗な問いからだけではなく、中平自身の「耐える力のひ弱さ」にも認めている。
(※67)『アサヒカメラ』の1977年の1月号「話題の写真をめぐって」で篠山の話題になったときに、彼が「晴れた日」「家」と『明星』を同じように撮ってしまうことから、中平は「カメラなんてものは、ただの光学機械で、ウソであることを徹底的に知りぬいた上で写真をとっている人だ」とコメントした。
(※68)多木浩二・中平卓馬編『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店)1970 p.170 中平がかつて引用したアンリ・コルピの映画『かくも長き不在』の主人公はナチスに連行された後記憶を失うが、なぜか拾い集めたグラフ雑誌から写真を切り取って集めていて、中平は「他でもないこの一枚の写真が彼の現在と失われた過去の一切とを彼の内部のどこかにおいて一点で結びつけている」と評した。
(※69)『デジャ ヴ』の「プロヴォークの時代」のインタビューの中で中平は30キロしか体重のなかったことがあったと語っている。
(※70)『文藝』1986年春季号「撮影の自己変革に関して」より
(※71)『文藝』1986年夏季号「撮影の自己変革に関して」より 『文藝』誌上に連載された「撮影の自己変革に関して」は『Adieu a X』にもまとめて載せられている。中平は李禹煥がいったような「出会いの世界との絶え間ない関わり」に生きようとしているのだろうか。『なぜ、植物図鑑か』前後、親交の深かった李禹煥に影響を受けた中平は「写真はちゃんと写っているべきだ」というようになったのだという。(李禹煥の『出会いを求めて』の装丁は中平によって手がけられている)
(※72)写真がレンズ光学系から非レンズ演算系へとシフトしつつある今、もはや暗箱は必要なくなった。しかし、デジタル写真とは果たして何だろうか?そこにはバルトが語ったような「それはかつてあった」も「光の触覚性」もなく、ただ記号に変換された光があり、かつての光は直接我々に触れに来る事はない。