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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


2章

[1]中平卓馬とユジューヌ・アジェ

 中平は『決闘写真論』の中でユジューヌ・アジェやウォーカー・エヴァンスの写真に見る者の遠近法をもゆるがしてしまうような世界(対象=事物)の側の眼差しを垣間見て、写真家である「私」の世界への突出である凸型の視線ではない別の眼差しの在り方を見いだしたのだと書いている。『決闘写真論』(※18)のなかに収められている「ユジューヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」という評論のなかで、彼はアジェの写真集『PARI DU TEMPS PERDU』を見ていたときに、以前「事物が眼につき刺さってくる」と感じて入院したときのことを思い出したと述べている。それは中平がアジェの写真の中に白昼の事物の恐怖や、光の触覚性のようなものを感じてしまったからであるといえるだろう。

 ユジューヌ・アッジェの写真集『PARI DU TEMPS PERDU』の第一章はREGARDS SUR LA VILLE(都市への視線)というタイトルが付されている。だがそれはいま「都市からの視線」と言いなおされなければならないだろう。なぜなら、それは強固に確立された自我からの世界は注がれた視線によって捉えられた世界の像、都市の像であるのではなく、いわば真空の、凹形の眼に向こうから飛び込んできた世界、都市をくしくも刻印することに成功した写真であるからだ。(※19)

 中平によるとアジェの写真というものは「凹形の眼」により捉えられた、というよりも「向こうから飛び込んできた世界」であり、そのまなざしは『来るべき言葉のために』での中平の強烈な視線、つまり「凸形の眼」によって捉えられた数々の写真とは逆のものであると感じられたのであろうか。このころから中平の論旨は写真は自己を表現する手段ではなく、世界をまるごと受けとめる行為であるという一点に集約されていく。すなわち世界の側が優位なのであって、見る主体としての「私性」は否定されねばならないという立場を基礎におくことになるのである。世界に対して受容的であるとはどういうことなのか、そして中平は写真家としてどのように世界と向きあおうとしたのか。このことを明らかにする為に少し迂回してユジューヌ・アジェについて述べておかねばなるまい。

[2]無意識の空間

 ユジューヌ・アジェは職を転々とした後パリのカンパーニュ・プルミエール街に移り住み、彼のアパートの扉には「芸術家のための資料」という看板を掲げられた(『PROVOKE』のサブタイトルは「思想のための挑発的資料」である)。アジェは誰に依頼されるでもなくあらゆる路地を徘徊し、パリの町並みを撮影して回った。被写体になったのは人物、公園、商店、室内など日常の些細なものであった。アジェが写真をとったのは1888年頃から1927年までの40年間であるといわれているが、その間に撮影した写真は一万枚にものぼったといわれる。当時としても旧式の技術を使っていた彼は、暗箱と三脚、18×24センチのガラス乾板を運びながら毎日のようにパリの町並みを収集していった。当時アジェの近くのアパートに住んでいたマン・レイは、1926年アジェの写真を数点『シュールレアリスム』誌に掲載するが、そこに撮影者の名前が載ることはなかった。アジェ自身が名前の掲載を強く拒んだからであった。マン・レイがアジェに写真掲載の許可を求めにいったときのアジェの返事は「名前は載せないで下さい。単なる資料なんですから」であったという。アジェの真意は定かではないが、いずれにしても、アジェが自分の写真を二束三文の値段で「芸術家のための資料」として売っていたことは興味深い。
 ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」の中でアジェの写真にひとかげが見られないことから、彼の写真には「気分というものが欠如」していて、都市は「まだ借り手が見つからない住居のようにきれいにからっぽである」と述べたが、おそらく中平もベンヤミンと同じようにアジェの写真に「図鑑」的、「カタログ」的なものを見たのであろう。アジェの写真がそうであったように「気分によって事物の輪郭をぼやかすこと」からとことん距離を置くことを目指す中平は、その第一歩として「なぜ植物図鑑か」を書いたのである。図鑑のように「当の対象を明確に指示することをその最大の機能とする」写真はあいまいな形容詞によって飾られることはない(中平のいうように図鑑の猫に「悲しそうな猫」などありえないのである)。気分が欠如し、誰もいない住居のカタログのようなアジェの写真はパリ、またはその周辺の都市を構成する「もの」の並置、羅列であり、極めて図鑑的であった。レンズは安物で暗かったが、アジェはそれを絞れるだけ絞って使った。暗箱カメラは水平に置かれ、極端なアングルや俯瞰はまったくといっていいほど行われなかった。また、短焦点で広角気味のレンズ付きカメラをあおって使用することが多かったことから(そのために画像の上部に黒いアーチ形が現れるが)、建物の垂直線はそのまま維持された。写真に自分の主観的イメージを反映させていくのではなく、あくまで感傷を排し、カメラを率直に使うことによって被写体をできるだけ正確に記録するというのがアジェの撮影態度であったという事ができるだろう。ベンヤミンにいわせれば「対象への無類の没頭ぶり、それが最高度の正確さに結びついていた」(※20)ということであろか。それゆえにアジェの写真は見る者に現実を超越した奇妙な印象を与え、シュールリアリズムの方面から歓迎を受けることになるのだが、シュールレアリストたちが注目した「無意識」と人間的意識の外部にあるカメラの眼との関係からすればそれは当然の成り行きであった。
   アッジェの映像はそのような私の思い出、情緒をつきはなし、待ちは街として自己完結して冷ややかに私を凝視している。そこには私による意味づけ、情緒化のはいり込むすきはない。(中略)それはちょうど水族館のガラス越しに世界を見るように、あるいはカタログを見るように覚醒しきっている。そしてこの一点がそれを見る私に恐怖を与えるのだ。(中平卓馬「ユジューヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」より) (※21)

 アジェがあらゆる先見的なイメージを捨て、まさしくアノニマス(※22)(=匿名性、しかも作家性を前提とする)な写真家として撮影行為を続けた(しかも観客を求めることなく)ことによって、事物の真の姿を露にさせ意味の世界を脱したことをわれわれは知ってしまっている。「知ってしまった」あとに作家としての写真家はどうすればよいのだろうか。アジェのように自分を消し、たまたま入りこんできた世界として、カタログ写真を撮るように世界を収集することができるのであろうか。写真師アッジェのつきつける「巨大な疑問符」(※23)、つまり「写真家とは何か」という問いに対して正面から、しかも写真家として回答しようとしてしまったのが中平卓馬であったといえるのかもしれない。

 図鑑的な写真、カタログ的な写真には細部が明確であり、あいまいさが排されることが必要である。さらに事物以外の余計なもの、つまりノイズなどが写っていてはいけないことになる。しかし、はたしてアジェの写真は中平がいうようにそれほどカタログ的であるのだろうか。私はここでアジェのセルフポートレイトについて考えてみたい。
 アジェはその生涯にわたり数多くの写真を残したが、彼自身の写真はほとんど残されていない(このことがアジェの伝説化に拍車をかけているのであるが)。彼は自分が写真に写されるのを嫌い、誰にも自分の写真を撮らせなかったことはよく知られているが、その唯一の例外だったのはアジェの発見者であり、よき理解者であったベレニス・アボットであり、彼女はアジェの死の数ヶ月前に彼のポートレイトを撮ることを許されている。こんなアッジェが数枚だけセルポートレイトを残していて、ここではそのうちの一枚である「オータンブール、トゥネール河岸63番地」を取り上げてみたいと思う。アッジェはその生涯で約一万枚の写真を撮影したといわれているが、1908年にトゥーネール河岸で撮影した一枚の写真をよく見てみると、そこに彼の姿がはっきりと写っているのである。写ってしまっているといったほうがより正確なのかもしれない。彼はトゥーネール河岸63番地の「オータンブール」という酒場の店先でいつものように三脚を立て、いつもと同じよう二撮影したのであろうが、写真にはいつもと違うものが、ラシャ布に覆われた三脚と暗箱、さらにその横に立っている自分自身の姿が写り込んでいた。ガラス越しにアジェのほうを見ている男がいたので、ガラスの中には二人の男が写りこんでしまった。撮影時には気づかれなかったかもしれない細部がレンズの眼によって捉えられてしまっていたのである。報道写真のキャッチコピー風にいえば「カメラは見ていた!」ということだろうか。この意味でアジェのこの写真は彼の意図から離れたところで幸運にも成立してしまったセルフポートレイトであった。中平卓馬が「ユジューヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」でベンヤミンを引用しているが、その部分を引いてみよう。

 写真の技倆も、モデルの身ごなしの計画性も疑えないが、こういう写真を見る人は、その写真のなかに、現実がその映像の性格をいわば焼きつけるのに利用した一粒の偶然を、凝縮した時空を、探しもとめずにはいられない気がしてくる。その目立たない場、もはや当に過ぎ去ったあの分秒の姿の中に、未来のものが、こんにちもなお雄弁に宿っていて、われわれは回顧することによってそれを発見することができるのだから。じじつ、カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いはとりわけ人間の意識に浸透された空間の代わりに、無意識に浸透された空間が現出するところにある。(※24)

 トゥーネール河岸でのこの写真は撮影者アジェの意図を離れ「無意識に浸透された空間」として現出したセルフポートレイトであった。アジェによっては捉えられなかったが、レンズによって捉えられていた空間が、「オー・タンブール」ガラスの扉の部分であった。そして、そこにはアジェ自身の姿意外にもトゥーネール河岸の舗道や並木までもが写し出されていたのであり、すべてが偶然とはゆかないまでもそれによるところが大きかったのだろう。
 よくアッジェの写真は図鑑的であり、パリという都市のカタログのようであるといわれ、それゆえにシュールレアリスム的であるとの評価をされるが、このような細部を目の当たりにしてしまうと、どうもそれだけではないようにも思えてしまう。確かにカタログ的な写真が多いのは事実だろう。そしてその明確さゆえにアジェの写真はわれわれに奇妙な印象を与えるのも事実である。しかし、静止し、死んだ映像であるはずの写真が急にいきいきと活気づいてしまうような細部をもつ写真も数多くあるのである。例えば『アジェのパリ』で大島洋はこう書いている。

 アジェの写真には人の気配が希薄で誰もいないように見えるの、によく見ていると何人もの人が路上や物陰や窓辺に佇んでいたりする。さらに、それだけではなく、写真ではただ黒くつぶれて見えるシャドーの中や、見えないカーテンの奥にさえも、人が潜んでこちらを窺っているように思えてくる。人の気配が稀薄であるにもかかわらず、強く人の存在が感じられる。(※25)

 私もアジェの写真を眺めていて同じような印象を受けた。なにげなく写真集をめくっていたら、突然窓辺に潜んでいた子供と目が合ってしまい、ドキッとさせられたことがある。さらにその写真をもっとよく見直してみると、さらに数人の子供がこちらを見ているのを(こちらといってもアジェの方だが、その時には「私を見ている」と思ってしまった)見つけてしまった。今まで何度も見ていたはずの写真だっただけに驚いたが、それ以上に、一方的に見ていた側だと思っていた自分が、突然見られる対象になっていたことへの動揺があった。アジェの写真にはこのような細部が無数にあり、そのことが私にアジェ写真を何度も繰り返し見させてしまう理由の一つのように思える。定着された細部に向かって自分の視線が写真の表面を滑ってくような感じが心地よく、時に私を不安にさせるのだ。
 このような細部は写真家アジェにとって「余計なもの」つまり、ノイズでしかなかったかもしれない。しかし、レンズの眼はこのような写真家の意図から逃れてしまうようなノイズをも平等に、「等価」に捉えてしまうのである(特にアジェの広角ぎみのレンズは画角が広いため「余計なもの」が侵入しやすいのではなかったか)。アジェの写真家としての活動期間である19世紀末から20世紀初頭にかけては、前に述べたアルフレッド・スティーグリッツの活動時期とほぼ重なっている。アジェの写真の多くはよく言われるような19世紀末だけではなく、20世紀初頭にも撮影されていて、ニューヨークと大西洋を隔てたパリでスティーグリッツの「等価」とは異なった「等価」的な写真が撮られていたのである(というよりは写真というものはもともとそのようなものであるのかもしれないが…)。
 繰り返すが、アルフレッド・スティーグリッツの「等価物」とは、あらかじめ定められた内的イメージを外的事物に託して撮影されたもので、それは自己表出の手段であり、対象の人間化であった。一方アジェの「等価」とはレンズを向けた対象から発せられた光が「正しく光学的法則にのっとって乾板に焼きつけられた」(※26)結果、ノイズである細部をも平等に捉えてしまうという意味での「等価」であった。近代の写真家であるアジェのカメラはノイズと呼ばれるような細部をも「等価」に捉えてしまったがために、その写真には近代科学的な図鑑的性質と反近代的なノイズとが同時に定着されてしまったのであった。しかし、アジェの「等価」もスティーグリッツの「等価」も共に世界との物理的接触から生じた痕跡であるがゆえに、それは撮影者が意識するとかしないということと無関係にあり、全ての対象物からの光が「等価」に捉えたレンズによって一枚の平面に還元されるという意味においては同質のものとなり得る。そして、それはスティーグリッツが雲と空のシリーズ以外の自分の写真全てを「等価物」と呼ぶようになった事と無関係ではないだろう。
 アンドレ・バザンは『映画とは何か(第二巻)』に収められた「写真映像の存在論」の中で、写真とは「外部世界の像が人間の創造的干渉なしに自動的に形成される」(※27)ものであって対象から「自然現象」的に発せられた光をただ受動的に受けとめただけのものだという。つまり、写真を撮るという行為は人間による主体的な行為なのではなく、世界に溢れる光がおこなう自動筆記的な自然現象なのであり、タルボットが名付けたようにまさしく写真とは「自然の鉛筆」の所産であるということであろう。カメラのレンズはそのただ受けとめるという受動性によって活気づいた細部やノイズをも捉えることができる。そして、そのようにして捉えられたものをそのまま「無垢の姿で返してくれる」(※28)のが写真であるのだ。ジャン・ボードリヤールの言葉を借りれば、このような写真の魔術的な性格を理解しない写真家が「下手な写真を、言い換えれば、上手すぎる写真を制作する」(※29)のであろう。
 そして、篠山紀信や荒木経惟はこのカメラの受動性と光の触覚性を本能的に理解し、半ばすべてをカメラに任せるようにして羅列的に大量の写真を発表し続けている写真家であるといえるだろう。ボードリヤール風にいえば、この2人は上手すぎるでもなく下手でもない写真家だといえるのかもしれない。そして今まで、中平卓馬の目指した植物図鑑写真を実践している写真家としてこの二人を位置付けることができるのではないか、という議論がいろいろなところでなされてきた。そして「何を撮っても植物図鑑ではないか」とまでいわれてきた(※30)。また、桑原甲子雄は中平本人から「植物図鑑的な写真は荒木経惟が引き継いだ」という言葉を聞いている(※31)。確かに荒木や篠山の写真の撮り方(カタログを撮るようにパシャパシャと次々撮っていく方法)が図鑑的だというのはわかる。しかし、図鑑的に撮られたものであるからこそ図鑑に不必要な「余計なもの」やノイズが入り込む余地があるとはいえないだろうか。アジェのカタログのような写真にもノイズ(アジェ自身の姿や子供たち)が侵入したように、どのような写真にも必ずノイズが侵入しうる。写真はすでに外部に存在するものを自然現象にまかせて捉えるものであった。そして、それをノイズかノイズでないか決めるのは人間であって、レンズの眼によって等価に捉えられた世界はすでにノイズで満ちあふれているのだろう。カメラの眼であるレンズは、すべての触れにくる光を平等に受けとめてしまう凹形の眼なのであって、写真の制作がカメラに依る限り写真家が意図するしないな関わらず「何を撮ってもノイズである」ともいえるだろう。よって、私には「何を撮っても植物図鑑である」という言葉と「何を撮ってもノイズである」という言葉は矛盾しないように思う、というよりもその矛盾こそが写真なのではないだろうか。ベンヤミンが発見したのは人間には属さない絶対的な他者としてのカメラ・アイであり、視覚的無意識であったのだろう。
 この世界はあまりに混沌とし、無秩序なノイズで構成されているにもかかわらず、われわれ人間がそれを整然と秩序づけることによって(つまり、ノイズの中から都合よく必要な情報だけを意識的に、あるいは無意識的に選択して)かろうじて日常的な生活を成り立たせているだけなのだ。そして、中平卓馬の第一写真集『来るべき言葉のために』は、そのような世界の在り方を忘れていた、というよりも眼をつぶってしまっていたわれわれに圧倒的な衝撃力をもって突き刺さり、見る者を不安にさせる、あるいは見ることへの不安をかきたてる。中平はかつて「確からしさの世界をすてよ」といったが、私はこの写真集を見るたびに「確からしさの世界」さえどこにもないことを再確認させられてしまうのである。『来るべき言葉のために』の写真には無造作なまでに生のままのノイズが侵入し、あふれていた。それは、中平が「写真家になる」と宣言することによってのみ写真家になったという特異な存在であったことに由来するのかもしれない(※32)。もしくは不確定で未知なるノイズ世界にただの一個の事物として投げだされってしまったことへの感情に由来するものかもしれない(※33)。いずれにしても『来るべき言葉のために』は撮影者であったはずの中平卓馬が否定しようとしてもなお、否定しきれなかった不幸な写真集であった。なぜならそこには写真の根源的な魅力であるはずのノイズや、強烈な光の触覚性がすでに、しかも、とりかえしがつかないくらいの強度で刻印されてしまっていたからではないだろうか。

[3]都市からの視線

 もう一度アジェに戻ろう。中平がアジェの写真を「都市からの視線」と表現したが、これは決して安易な擬人化などではなかった。「都市からの視線」とは写されたものがイメージを介入されることなく、純粋に外見として、それ自体として見る者を見つめ返すまなざしのことで、あるいはこの視線を「事物からの視線」と呼ぶこともできるだろう。中平によれば、世界と私は一方的な私の視線によってつながっているのではなく、事物からの視線によって私もまた存在していて、人間の営みとは別の私の視線を拒む世界は防水性の固い外皮でおおわれているのだという。アジェのレンズは非情であり、それを通して得られた像に中平による意味づけや情緒化の入り込むすきはなかった。そして、そうであるがゆえに中平は「都市・事物の裸の視線をアジェのカメラを通して肌身に感じる」(※34)のである。前にも述べたように、事物(都市)から発せられた光がわれわれの網膜に触れにくることによって、見るという行為が可能になるわけであるが、そのとき同時にわれわれから発せられた光が事物(都市)の方にも触れにいっているということも忘れてはなるまい。もう一度アジェのセルフポートレイトを思い出してみよう。写真を撮ったはずのアジェの姿がその対象であったはずの扉のガラスに映ってしまっていた。これはアジェが写真を撮ったとき、つまり扉のガラスから発せられた光が乾板に触れに来たとき、アジェから発せられた光も同様に扉のガラスに触れにいっていたという事実をもの語っているだろう。そして、カメラはその両方の光、つまり「都市からの視線」と「都市への視線」の両方を捉えてしまった。
 アンリ・ベルグソンは『物質と記憶』の中で写真について奇妙な記述している。

 しかし仮に写真があるとしたら、写真は物事のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることをどうしてみとめないわけにいくであろうか。(※35)

 長谷正人は『映像のオントロギー』のなかでこの記述について、写真はカメラなどなくても常に存在していて、「世界は写真として存在しているのだ」(※36)と驚いてみせたが、これはいったいどういうことだろうか。例えばピンホールカメラについて考えてみれば分かりやすいかもしれない。今まで光の触覚性について述べてきたように対象から放射状に発せられた光の進行をカメラがせき止めて物質上に定着したものが写真であった。ピンホールカメラはカメラと呼ばれてはいるもののレンズもなければシャッターも絞りもないく、箱に小さな穴があいているだけであるり、われわれにできる唯一の事はこの箱を写したい対像の前に置くことだけである。しかし、対象の前にただ置かれたこの箱がその内部に像を結び、対象に近づければ大きく、遠ざければ小さく、箱を移動させればそれに伴い箱の内部に映る像も変化していく。あたかも映画の映写機のように、箱の内側には常に外の事物の表面から浮き上がった像が触れにきては姿を現すのである。ある対象をどの角度からも撮影できるのは、その対象から発せられた光がその周り溢れているからであろう。長谷正人はこのような光の性質を「透明な写真」と呼び、「事物が光の粒子の状態においてそこら中で互いに浸透しあいつつ存在している」のだという。「光の届くかぎりにおいて」、「回りの全方位にむけて」、「私の身体は写真としては常に幽体離脱しつつ存在している」のだとはよく考えてみればまったくその通りのことっであろう。絶え間なく光の粒子が放出され続け、あらゆる者に向かって無差別に注がれる光で満たされた世界は写真として潜在的に、そしてあまりに顕在的にすでに、そこかしこに現前しているのである。 中平がコップと彼との間に横たわる距離を測ることができず、距離感の崩壊を感じてしまったのもこの「幽体離脱」したコップによるものだろう。そして、アジェが写してしまった自らのポートレイトは、「彼の回りにぎっしりとつまっている」彼自身の「幽体離脱」した光の写真であったのだ。 確かに中平のいうようにカメラは「世界の表側を、その外皮をなぞること」(※20)しかできず、「私−世界という一方通行の関係でしか物をとらえることに成功しない」(※38)かもしれない。しかし、世界は、事物は自己増殖しながらあらゆる方向からわれわれに触れにくるのであり、われわれもまた世界に触れにいくのである。そして、遠近法的な視点により世界と対峙する写真家もこの都市からのまなざしによって、都市の中の一個の事物として、ほかの事物と双方向的に浸透し合うのである(中平はアジェのこの写真を見たのだろうか・・・・)。そして、アジェやエヴァンスの写真は世界と写真家との相互媒介的な眼差しの関係を刻印することに成功した数少ない例外であった。(※39)写真家は世界を見るが、世界を見る写真家自身もまた世界の一部であり、見ると同時に世界からも見られるのである。森山大道の言葉を思い出そう。

光あふれる町には、人も物もあらゆるものが輝きを持って氾濫し、流動している。あたかも、僕に撮られることを待っているかのようであった(※40)。(『写真との対話』森山大道)

 写真家とはこのようの光への感受性を持つことのできる者のことを呼ぶのかもしれない。 そして彼らは、不断に流動し、氾濫する無限の光としてある世界の中で、その光に身をさらしながら、すでに写真としてある世界のほんの一部だけを「複写」していくのである。

(註)
(※18)
中平がこの文章を書いたのは篠山紀信の作品「晴れた日」「家」に」触発されたからであると語っている。「沈黙の中にうずくまる事物−ウォーカー・エヴァンスにふれて−」(1975)のなかで「エヴァンスの写真は、事物を道具性としての事物、意味としての事物を異形の事物に還元し、われわれにつきつけるなどといった大仰なおしつけがましい身ぶりをもっていない」と語ったが、この言葉は『来たるべき言葉のために』のことを意味しているのかもしれない。
(※19)中平卓馬、篠山紀信『決闘写真論』(朝日新聞社)1977、p.19
(※20)ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』久保哲司編訳(ちくま学芸文庫)1998、p.33  中平もアジェについて語ったときにこの部分を引いていて、アジェの写真が今なおそれを見るわれわれを感動させるとすれば、まさしく無意識が支配する世界そのものがわれわれの意識をゆさぶり続けるからであると語っている。
(※21)篠山、中平、前掲書p.11-12
(※22)プロヴォーク時代中平や多木、森山などが使っていた言葉で「写真百年展」で見た撮影者不明の大量の写真から導き出された言葉。
(※23)『アサヒカメラ』1973年6月号の「ユジューヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」の最後で中平は「今、私は文字通り失業写真家としてこの一年を送ってきた。しかしなおかつ写真家であることを選びつづける私は、このアッジェのつきつける問題を素通りにしては決して写真をとる行為を再開できないことを十分に知っている。ユジューヌ・アッジェ。それはわれわれにつきつけられた巨大な疑問符である」と結んでいる。なお『決闘写真論』にはこの部分は未収録。
(※24)ヴァルター・ベンヤミン『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』所収「写真小史」田窪清透、野村修訳(昌文社)
(※25)大島洋『アジェのパリ』(みすず書房)1998、p.146
(※26)篠山、中平、前掲書p.14
(※27)アンドレ・バザン「写真映像の存在論」『映画とは何か』第二巻所収 小海永二訳 1970(美術出版社)p.19
(※28)同書、p.23
(※29)ジャン・ボードリヤール『消滅の技法』梅宮典子訳(PARCO出版)1997、p.46
(※30)『写真装置』特集「写真論のパラダイム」多木浩二と三浦雅士の対談や大島洋の『写真幻論』p.33など
(※31)『デジャ=ヴュ』第14号 特集「『プロヴォーク』の時代」199  p.72
(※32)中平は『現代の目』の編集者時代に知り合った東松照明にアサヒペンタックスを贈られ、詩人になるか写真家になるか迷った結果「写真家になる」と宣言して写真家になってしまった。当時、アシスタントなどを経て写真家になるのが普通であった日本の写真界において、中平は異例の存在だった。中平の写真が最初に載ったのは『現代の眼』(1964年12月 連載「I am a king」)であり、当時編集者であった彼は「柚木明」という変名で作品を出している。フィルム現像と暗室作業は森山大道に教わったのだという。
(※33)1977年1月号の『アサヒカメラ』対談「話題の写真をめぐって」で「写真を撮るということは、不服があったり文句があったり、あるいはものすごくいれあげたりした上で成立する行為だと思う」と中平は述べていた。
(※34)『アサヒカメラ』1973年6月号 p.183
(※35)『物質と記憶』アンリ・ベルグソン、田島節夫訳(白水社)バルトルシャイティスの『鏡』(1999 国書刊行会)にも似たような記述がある。 「世界全体は目に見えぬ映像でいっぱいで、それらは物の表面から浮き上がり、あてなく空中を飛びかい、そして反対幕にぶつかると姿を現すのだ」。(谷川渥訳)
(※36)長谷正人『Internet Photo Magazine Japan』所収『映像のオントロギー』より「ベルグソンと写真」
(※37)多木浩二・中平卓馬編『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑書店)1970所収「同時代的とは何か」中平著より p164
(※38)1975年に『アサヒカメラ』で一年間にわたって連載された「新説・写真百科」より「状況」、中平
(※39)中平は彼らの写真を例外として片付けてしまってはいけないと述べている。
(※40)森山大道『写真との対話』(青弓社)1995
村上陽一郎は「瞬間は果たして瞬間か」(『写真装置』1号 1980)のなかで、点化された瞬間としての写真ではなく、文字通り「瞬く間」であり、「幅のある時間」としての写真を提示する。刻々と変化し、流動する光で出来ている世界は「何分の一」というシャッター速度で捉えられる時(つまり、あらゆる写真において)、常にブレボケとして現れるのではないだろうか。