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小原真史
多摩美術大学大学院/東京綜合写真専門学校研究科


序章

 1968年10月、多木浩二、中平卓馬,高梨豊,岡田隆彦を中心に写真同人誌『PROVOKE』が創刊された(2号から中平に誘われた森山大道も加わる)。「PROVOKE」は「挑発する」という意味で、彼らは言語と写真表現、さらには見ることに対してラディカルに問題提起をしていった。そして、その巻頭には次のように書かれていた。

 言葉がその物質的基盤,要するにリアリティを失い,宙に舞う他ならぬ今、ぼくたち写真家にできることは、既にある言葉ではとうてい把えることのできない現実の断片を、自らの目で捕獲してゆくこと、その言葉に対して、思想に対していくつかの資料を積極的に提示してゆくことでなければならない。

 彼らの目指したのは「既にある言葉」=「リアリティを失った言葉」からはみ出すような現実を新たな映像として提示すること、硬直化した言葉と映像の関係を解体し、「たしからしさの世界」(それらしさを装うよな意味)を捨てることによって、「裸の世界」とあらためて向きあい、「来たるべき言葉」=「思想」を挑発することであった。その意味で『PROVOKE』の心性は「写真という近代との訣別」(※1)であった。その後69年に3号、70年に単行本『まずたしからしさの世界をすてよ』を刊行し、わずか一年半ほどの活動を終えてしまうこととなる。その『PROVOKE』のラディカリズムを支えていた「挑発する」写真家の一人である中平卓馬は、写真家であるとはどういうことかという根源的な問いかけを自らに課すことによって、自らをも挑発していったのである。その結果、彼は出ることのできない袋小路に追い込まれてしまったのであるが、本稿では60年代の後半から現在に至るまでの彼の言説と写真を追うことによって、何故彼がそのような袋小路にはまるに至ったのか、さらに写真家とはいったい何者であるのかを考察していきたいと思う。なぜなら私には、彼について語ることと写真家と写真について語ることとが同義であるように思えたからである。
 中平卓馬は「私は写真家である」と宣言することによって写真家になり、60年代の後半から精力的に活動していった。しかし、初の写真集『来るべき言葉のために』(1970年)の後、自身の写真表現に疑問を抱いた中平はスランプに陥り、写真家としては長く沈黙することとなる。1973年には「なぜ、植物図鑑か」という自分自身への辛辣な批評により、以前の自分、つまり『来るべき言葉のために』を否定し、新たな写真集へ向かおうとする。そのタイトルは『なぜ植物図鑑か』と命名されたが、それはついに実現することはなかった。『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像評論集』の後、中平は「政治の季節」に絶望し、70年代という時代状況も重なって以前のように写真を撮ることができなくなっていく。おそらく「なぜ、植物図鑑か」での極端な方向転換と中平の思想的誠実さが写真家としての中平卓馬を袋小路に追い詰めてしまったのであろう。その後中平は知覚異常のため何度か入退院を繰り返し、76年には篠山紀信の写真と中平の文章による「決闘写真論」をアサヒカメラに連載し、77年ユジューヌ・アジェやウォーカー・エヴァンス論を含む『決闘写真論』を出版するなどして写真への情熱をとりもどそうと模索するが、うまくはいかなかったようである。そして同年9月、中平は逗子の自宅でのパーティーで酔いつぶれ急性アルコール中毒により意識不明の重態になった(※2)。そして、そこから奇跡的に生還はするものの、逆行性記憶喪失により記憶の大部分を失い、失語症などの後遺症と闘うこととなる中平からは以前のようにわれわれをアジテートするような言葉は失われてしまっていた。それ以降、中平は写真を撮ることこそやめなかったが、その後の二冊の写真集(『新たなる凝視』1983年『Adieu a X(あばよ、X)』1989年)には『なぜ、植物図鑑か』というタイトルがつけられることはなかったのである。
 写真家中平卓馬のターニングポイントとなったのは、間違いなく「なぜ、植物図鑑か」であり、これによって彼自身、身動きが取れず袋小路に入っていったことは事実である。では具体的に「なぜ、植物図鑑か」のどこに中平は縛られ、写真家としてどのような困難につきあたったのであろうか。

(註)
(※1)西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』(青弓社)1996、p.5
(※2)
1971年のパリ青年ビエンナーレの出品した中平はその時知り合ったフランスの美術家アンリ・ユベールの帰国に際して自宅(逗子)での送別会を催した。逗子の海岸で花火や相撲(中平全敗)でひとしきり騒いだあと宴会で酔いつぶれた中平は翌日病院に担ぎ込まれる事態になった。そのとき居合わせた宮内勝によると、いつもの事だというのでそれほど気にせずに、持っていたカメラで中平を撮影したのだという。(そのときの写真は『流動』1980年11月号「思考空間・行動空間 中平卓馬」に掲載されている。花火で遊んでいる中平と裸で机に突っ伏している中平、そして病室の扉の写真がある)