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第3回
須田一政

写真界の巨匠に、写真を学ぶ若い人がお話を聞くコーナーです。第3回は、平永町橋ギャラリーの主宰もしておられる須田一政先生です。

質問者:まず、先生が写真をお撮りにられたきっかけをお聞かせ下さい。
須田:写真始めたのって結構遅いんですよ、高校卒業した頃、友だちが皆カメラもってまして、親父に買って貰ったんですよ。そして近所のおねえさんとか、動物とか、撮っていたんですよね。最初に買ったカメラがアイレス35っていうカメラだったんですが、その次にローライを買ったんですね。結構撮り始めると面白くなって、いろんな他の人の写真を見たいと思ったんです。最初に写真集を見るのがものすごく好きで、神保町に森写真工房っていうか、ウチの学校の東京綜合の一期生がやっていたんですけれど、そこを通りかかってそこに写真集がどっさりあるんですよ。その頃あまりお金がなかったんでそこへ行って写真集を見ていて、それから結構ハマっちゃって、そしたらそこの人が「写真学校へ行ってちゃんと学んだ方がいいよ」って薦められて、それで「東京綜合」に入ったんです。撮ることよりも見ることが最初好きだったんですね。
質問者:昭和30年頃?
須田:えーと何年ごろかなあ、そのくらいかも分からないですね。そのころウイリアム・クラインとかアービング・ペンとか、リチャード・アベドンとかが最初に写真集を出した頃ですね。
質問者:国内ですと、その頃?
須田:木村伊兵衛さんとか、写真学校出て何撮ろうかと浅草辺りを歩いていると木村先生など、いろんなところでお見掛けしましたよ。高梨さんなんかも好きだったんで、高梨さんが肩からライカのM3なんかぶら下げているのみて、ああ好いな! なんて。跡を付けて行こうなんて。
質問者:須田さんはそのころローライを首に?
須田:いいえ、35ミリだったんですよ。まだライカは持っていなかったんですけれど。高梨さんがライカを肩から下げているストラップの長さが気になって、自分のカメラのストラップを同じ長さにしてみたりとか。
質問者:そのように身近に感じられる写真家の大先生って最近いらっしゃらないですね。
須田:僕なんか写真を撮るというか、その場所が好きなんですよ。浅草とか下町なんですけど、なんか酒が好きだから、撮影を切り上げてとにかくお酒にしちゃおうと、美味しいお店とか、安くて美味しいつまみのある店とか、そういうところばかり撮っていたら、結局自分のテリトリーがそこに限定されてしまって、目黒区や世田谷区って、あまり行ったことがないんですよ。行ったことがないというより、撮影エリアに入っていなくて、こないだも今までの撮影データをずっと調べていたら、300カ所ぐらいのなかで、世田谷区やその辺は一つとか二つぐらいで、あとはみんな江東区、江戸川区、台東区、神田とかその辺ですよ。
質問者:新宿は?
須田:えーと、僕は新宿ってあまり行かないですね。渋谷でもほとんど飲んでないなあ。なんか見えない線みたいなものがあって、ものすごく偏見なんですけれど、そこを越えるとクラクラ眩暈がして、結構脅迫観念としてあるんじゃないかと思います。落ち着かないですね、酒を飲んでいても、歩いていても、早くこっち側へ来たいなという。
質問者:写真展をものすごく沢山やられてるんですが。
須田:別に何って訳でもないんですけれど、結構どんどん撮っちゃうんですよ。撮っちゃうと吐き出さなければ次へいけないみたいなところで。それが一区切りというか、どっこいしょというところで、集大成というのではなくて、どんどん整理していくという気分ですよね、でなければ次へ進めないという。で写真展やったからと言って考えを新たにして次に取り組んでという感じじゃないんですよ。
質問者:こちらの平永町橋ギャラリー開かれたのもそういった面で。
須田:いや、ここはまったく違うんですよ。たまたま神田で親父がスレート業をやっていまして、スレート瓦とかありますよね。ここのガード下を借りて倉庫に使っていたんですよ。親父がなくなりまして、跡をどうしようかということになって、だったら住んでるところが千葉だし、東京にに拠点があれば酒飲んで遅くなっても泊まれるし、まったく方便で、ここを写真ギャラリーにすれば、カミさんも東京へ行かせてくれるだろうし。ということで。
質問者:こちらでの作品は、若い人が多いですが、審査などはあるのですか。
須田:いや、ウチはそういうのありません。まったくのレンタルギャラリーですから。申し込んでいただければ、必ずしも写真じゃなくて何でも好いと。
質問者:ここで写真以外、というと思いつきませんが。
須田:そうみたいですね。でも、こないだ一回杉本英輝さんという蝋彫刻師の作品で、すごく性的なオブジェの作品展があったんですが、ウチのギャラリー開設以来の入場者で、すごかったですよ。一週間で600人以上はいったんです。いつもこの中に人が溢れていて、若い人が多かったですね。「杉本さんの作品のテレホンカードがないんですか」なんて聞かれたそうです。写真では来ないですよ人はなかなか。
質問者:天井桟敷の写真スタッフやっていらしたですね。
須田:寺山修司さんがやっていた、旗揚げの頃だったですけど、NHKの放送ドラマで寺山さんの恐山というのがあって、それに大変興味をもっていて、その頃読書新聞という新聞に寺山さんが天井桟敷が旗揚げをするんで、スタッフの募集記事があったんですよ。それを見て、写真の需要もあるなっていう、ちょうど建国記念日の大雪の日でしたよ。祐天寺だったかな面接に行って、写真を撮らせて下さいと云った。
質問者:募集の時にもうカメラマンを?
須田:そうなんですよ。スチールというか、記録のためにという。写真の学校卒業してまだ2年ぐらいだったですが。その頃はまだ親父の仕事を手伝っていて、近県に車で配達に行くんですよ。当時はまだ棒ハンドルのオート三輪を運転して結構細かく歩いたんですが、その頃の記憶って強くありますよね。
質問者:それで恐山の写真が賞をとった。
須田:あれはね、学生の時で、月例なんですけど、日本カメラのアマチュアのコンテストで、1年間応募し続けるんですよ。それで初めて出したものが、たまたま特選に選ばれて、1年やってみようかと。トータルで1位になったんですが、その時の審査員が田中雅夫先生で、今はおなくなりになっているのですが、それから田中先生とおつき合いができて、いろんな企画で旅、民謡の旅とかカメラマンになってからいろんな仕事をしたんですけれど、あの頃は面白いときでしたよね。状況劇場があって、天井桟敷があって、いろんなアングラの劇団が結構あって。
質問者:私には全然年代が判らないんですけれど。
須田:60年代から70年に入る頃でしたでしょうか。ちょうど天井桟敷がフランス公演に行った頃で、毛皮のマリーや大山デブ子の犯罪とか、それが国内公演の最後で、海外公演の資料やパンフレットを作ったんですよ。スチールを撮る仕掛けが面白かったですよ。皇居の前に横尾忠則さんとか寺山さんや奥さんの九条映子さんが制服を着たり扮装をして、記念写真のノリで雛壇で撮ったりしてね。地下鉄の中で衣裳を着たまんま、突然羽織ったコートを脱いでパッと撮っちゃうとか、国会議事堂の前にストリッパーの人と劇団のお兄さんを並べて、早く撮れとか、訳判らなかったけど楽しかったですよ。
質問者:海外へは。
須田:一番最初が香港で写真学校のゼミの旅行で、そこがなかなか良いところで、83年ごろでした。後藤元洋さんや大西みつぐさんが一緒で、香港なんて天井桟敷じゃないけど街がすでに演劇的っていうか凄いところですね、洗練されてないっていうか、これから何か始まるんじゃないか、何か幔幕の陰から向こうの明かりがゆらゆら揺れていて、その分こちらのイメージが膨らんでくるじゃないですか、剥いても剥いても何かが出てくるというような。
質問者:どちらかというとモノクロの作品が多いようですが。
須田:僕は最初ずっとモノクロだったんですが、今はカラーとモノクロが半分ぐらい。どちらかというとカラーの方が多いぐらいですね。
質問者:今、若い人がモノクロを好むようですが。
須田:そうですね。あれ何なんでしょうね。つまり自分でさわれる部分っていうか、自分でいろいろできるから面白いんでしょうね。
質問者:最近写真を始めた若い方にご助言をいただきたいんですが。
須田:難しいなあ。モノクロがアンティークなものという感じで、それが若い人にうけいてるのかな。でも、モノクロは暗いですよ。暗室自体が暗いですからね。黒魔術の世界、呪文を唱えながらっていう。10年保証現像液とか、うなぎ屋さんのタレみたいな秘伝の世界。
質問者:主に35ミリが多いんですか。
須田:ええと僕はフォーマットはいろいろですね。一番最初が35ミリで、それから6×6、6×7も撮りますし、ミノックスっていう小さなカメラでも撮り、ポラロイドも撮るし、あんまりこだわりはないんです。ただし換えていくことによってどうなるかということもなく、むしろ気分というか。
質問者:最初見た先生の作品がミノックスだったんですが。
須田:そうですか、ミノックスはずいぶん撮りました。撮っているときは案外ハマっちゃいますよね。ポラロイドの時はポラロイドがすべてだと思っちゃって、あのツルツルな画面というものが好きでしたよ。ミノックスはミノックスであのザラザラの新聞印刷みたいな何撮っても事件現場みたいなのが。でも基本的にはパンフォーカスが好きなんですよ。だから全面ピントのカメラは好きですね。かといって21ミリとか24ミリなど、超広角のディスとーションは好きじゃない。意識しなくても全部ピントが合ってくれるカメラというと、ミノックスって案外そうなんですよ。ポラロイドもみんな合うし、面白いですね。全面にピントを合わせて何かを言おうとか、フォーカスだと一点に集中して、そこに意識が行ってるからそれによってとか、どちらもないじゃないですか。どっちもツルツルでそれが好いんですよ楽で、気分としては。
質問者:楽って、そうゆう風になるの難しいんじゃないですか。
須田:ピントを合わせないで良いっていう楽さじゃなくて、集中度が拡散できる。それを印画として見たときに自分として意識が行ってない部分をまた他人事のように見れる。そのように楽しめる、探せるっていうアレで、パンフォーカス好きですね。だから一点フォーカスがちゃんと来ちゃうと、見たときにここに気分が飛んでいるのを、何年経ってもそこにフィックスされちゃって、それは想いの記録としては好いんですが、歳と共に興味は変わっているからデータ的なものが写ってた方が、あんときは何が面白かったんだろうね、って見返したときに自分で楽しめるから。
質問者:ああこんなものが写っていたとか。
須田:そうですよ。あの時変だったのかなとか、何でミノックスだったんだろうとか。
質問者:最近デジタルカメラとか出てきていますが。
須田:僕は全然わからない。よく解っていて解らないのではなくて、本当に解らない。多分敬遠しているんでしょうね。
質問者:やはり銀塩写真というか、プリントを。
須田:そうですね、でも最近モノクロをちゃんとしなくなっちゃったし、リバーサルが多いですよ。ネガカラーもあまり撮らない。でもここ1年半ぐらい35ミリのちっちゃいカメラでネガカラーで撮っているんですよ。それは1円プリントってありますよね、ゼロ円プリントですか、プリント太郎というところへ出すと、36枚撮り680円くらいでプリントと4コマのコンタクトがつく。あれがなかなかハマってまして、面白いんですよ。まったく整理はしてないんですけれど、1年半で大きな段ボールに七つぐらいになってます。エライ重いんですよ。アレって梅雨も越しちゃったし、あのまま置いておくと悪くなるんじゃないかとドキドキしながら置いているってなかなか好いもんですよ。
質問者:あれが写真にとって好いのか悪いのか話題になってます。
須田:ニコンの高級コンパクトとか、ミノルタの13万円のカメラとか、1万円のカメラとかみんな同じように写りますでしょプリントが。色が抜けていて、どんな高級カメラでも平等に、あれがヘンでいいですよ。
質問者:いつかそれをまとめて。
須田:なんかしようと思うんです。でも、それだけまとめて見ようというパワーがないですね。昔は撮った写真をすぐ見ようと思ったんですが、億劫ですよね。ただ、4コマを向こうで勝手に切りますよね。あれが面白いですね。次のコマが唐突でしょう、つながりが。
質問者:須田さんがゼロ円プリントで写真展やられたら、アマチュアの人は衝撃的でしょうね。
須田:あの4コマのやつを4×5かなんか、どういう形になるのか判らないけど、あれを大きなプリントにして写真展やろうかと、今考えているんですよ。選ぶの面倒くさいから4コマだけを見て行くんですよ。写真ってプリントのクォリティーを含めて、ゼロ円プリントから学ぶものってあるんじゃないですか。メカニズムの進歩もあるだろうけど、逆にクォリティーの低いものから発想していっちゃうという面白がり方もありますね。
質問者:では、ヒロミックスがビッグミニしか使わないというのはどうでしょう。
須田:ヒロミックスって土田ヒロミさんのことかと思いました。
質問者:最初私もそう思っていたんですが。
須田:僕もずっとそう思ってて、皆に笑われちゃいました。いいんですよあの色抜けしたっていうか、センチメンタルな明るさが。
質問者:ではフォーマット選ばずとにかく撮ること。
須田:僕はとにかくどんどん撮っている。撮らないと落ち着かないという訳じゃないんですが、なんかね。量の問題じゃないんですが。本当はいっぱい撮って、人が何かしてくれるっていうのが一番好いんですね。
質問者:今後の計画についてお聞かせ下さい。
須田:今後はゼロ円プリントをぜひ作品としてまとめてみたいですね。(笑い)

須田一政「ECLIPSE」より