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 長く広告写真や女性ポートレイトの世界で活躍され、最近も和紙などに乳剤を塗って写真をプリントされた作品を発表されたりとご活躍の藤井秀樹先生。40年近くにわたる先生の「写真人生」を熱く語っていただきます。

編集部(以下編):お忙しいところ、ありがとうございます。よろしくお願いします。

藤井秀樹先生: 先月まで助手時代の話でしたので、今月は実際に就職する話をしましょう。
 湯島にある婦人生活社というところから、新しく「服装」という雑誌を創刊するので、誰か秋山先生のお弟子さんで来てくれる方はいないでしょうかという話が、秋山先生のところにありまして、「お前も3年になるし、新しいところならいじめる先輩なんかもいないだろうから良いだろう」ということで、僕が行くことになったんです。
 就職してから創刊号を出すまでに3ヶ月くらいあったと思うんだけれど、スタッフは編集長と副編集長と僕の3人だけだったんですよ。その3ヶ月間、料理、妊娠・出産、ファッション、何でも撮らなくちゃならない。僕にとっては、これがとてもいい勉強になりましたね。若いうちはいろんな仕事をやった方がいいね。例えば、それまで僕は料理なんか撮ったこと無かったんだけれど、銀シャリの色をどうやって出すかとか、アイスクリームの天麩羅をどうやって撮るかとか、試行錯誤しながら勉強していきました。料理の写真は、色々食べれて良いだろうとみんな思うのだけれど、そうでもないんですよ。例えばチャーハン特集なんかやるとね、1日に何回もチャーハンばかり食べることになってしまって、もう最後には嫌になってしまう。
 そのころ女性誌には大抵付録が付いたんですが、その中身は料理、編み物、家計簿、育児と言ったところでしたね。料理となると、付録一冊分ずっと料理を撮らなくてはならないし、育児だと出産風景まで撮らなくてはならなくて、貧血起こして倒れたりもしましたね。当時25歳だったんだけれど、生々しすぎましたね。(笑)
 他にカメラマンがいないものだから、僕一人で今日は料理次の日はファッションという風に休み無しに撮影していたんですが、当時モノクロの現像も僕がやっていたんですよ。婦人生活社の本社の方には暗室があったんだけれど、新しい雑誌は別のところで作っていたんで、暗室がなかったんです。それで宿直室の風呂場を使ってね、風呂桶の蓋の上にバットを置いて現像していました。ちょうど残り湯でバットが温められて、具合がいいんですよ。そのころはほとんど家に帰らなかった。昼撮影して夜現像してまた昼撮影しての繰り返しですよ。創刊号が出るまで毎晩スタジオに寝泊まりしていました。
 そうやって色々なものを撮ることが出来たことが、将来の良い参考になりました。色々やってみたことで、自分の本当に好きなものが見えてきましたね。僕はやっぱりファッションが好きだなと。ファッションの別冊が出たりすると、別冊で80ページ、本誌の方で40ページくらい一月で撮らなくちゃならないんですよ。しかも現像からベタまでも僕がやるんだからね、本当に若くて好きでなければやってられない。そうやって、給料を貰いながら勉強させて貰ったようなものですよ。僕も若い人に言うんだけれど、自分のテリトリーを決めないで、何でも撮ってみろと、全ては勉強だと、そうやっていろんなものを撮っているうちに、自然と自分の好きなもの嫌いなものが出来て絞られるからね。秋山おやじもそういう風に言っていましたよ。
 そのころはまだモデルさんという職業がほとんどありませんでした。ちょうど僕が服装にいた3年間で増えてきたところだったので、はじめのうちはまだいなかったんですよ。そこで誰を撮るかというと、ほとんど女優さんでしたね。ところがその頃は映画全盛ですから、例えニューフェイスでもスケジュールが埋まっててなかなか撮らせてもらえなかったんです。もう女優さんを撮るとなると緊張しましたね。夢みたいだった。
 僕はその頃、雑誌のほとんどの写真を撮っていたんだけれど、表紙だけは撮らせてもらえなかったんですよ。やっぱり撮りたいじゃないですか。そのうち、編み物特集の別冊の表紙を撮らせてくれるということになってね、うれしかった。それで、表紙に北原三枝を使いたかったんですよ。秋山スタジオの頃に面識があったんだけれど、当時、太陽の季節の前くらいだから大スターです。「秋山スタジオに前いました藤井と申しますが、婦人生活社の服装という雑誌に今いまして、今度編み物特集で表紙をどうしても北原さんにやってもらいたいんです」と、直接お願いしたんです。そうしたら「いいわよ。藤井ちゃんお祝いだから行ってあげるわ」ってね。うれしいじゃないですか。それで、婦人生活社のスタジオに来てもらって撮影しました。当時、僕みたいな駆け出しのカメラマンの言うことを聞いて、スタジオまで来てもらってね、本当にうれしかった。だから今でも北原さんには感謝しているんですよ。
 他にも、そこで知り合った芳村マリちゃんとかモデルさんと仲良くなってね、作品を撮らせてもらったり、一緒に車に乗って榛名湖に遊びに行ったりしました。それが、後でフリーになったときにとても役に立ったね。雑誌にいて、そういう人々と出会うことで、大きな財産を得ることが出来たのは本当に良かったと思います。本当に幅広い知り合いが出来たからね。
 そうやって3年間服装という雑誌にいました。ロケにも行ったし、モデルさんとも仲良くなったし、いろいろありました。スタッフはどんどん増えて10人20人となっていったんだけれど、カメラマンは相変わらず僕一人でね、外注にも出すようにしていったんだけれど、出来れば僕が撮りたいから仕事がどんどん増えていく。現像ももうしていられないからラボに依頼していく。もうとても忙しい3年間でしたね。

編:ありがとうございました。この次は、日本デザインセンター時代のお話をお聞かせ下さい。