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長谷正人
早稲田大学文学部教授


[40]ヴィリリオ、あるいは映画の終焉

 ポール・ヴィリリオが、映画を「速度」の問題として論じたことは良く知られているだろう。映画は観客に対して、今ここからは遠く離れた別の場所が眼の前に出現したかのような感覚を与えてくれる。だからそのとき人びとは、映画館の座席のなかに深く身を沈めて一歩も動かないまま、猛烈な「速度」によってその場所へと「移動」したことになる。つまり彼は、映画とはある意味で仮想的な「旅行」であると言うのである。だから実際、映画の起源は「旅行」や「観光」と深く結びついていた。リュミエール兄弟は、映画を発明するとすぐにカメラ技師を世界中に派遣し、各地でフランスの何気ない光景を異国の光景として上映させたり、今度は逆にその土地の珍しい風景を撮影してフランス国内で観光映画として上映させたりしたのだから。むろん、それはリュミエールの時代だけのことではない。たとえば戦後の日本人にとって『ローマの休日』を見ることは、日本にいながらにしてヘップバーンと共にローマの名所旧跡を観光する映画だったろうし、『めまい』とは、ジェームス・スチュアートの運転する自動車とともに坂の多いサンフランシスコの街をぐるぐると移動する映画だったろう。つまり、外国旅行が難しかった時代にあってはつねに、映画は飛行機などよりずっと速い「速度」によって、瞬時のうちに外国へと旅行させてくれる便利な「移動」メディアだったのである。
 しかし、そのような「速度」のメディアとしての映画が完成するのは、映画においてではなく、現在のようなテレビによる衛星生中継においてであると言うべきかもしれない。衛星生中継によって私たちは、湾岸戦争の爆撃の瞬間からサッカーのワールドカップの決勝戦にいたるまで、自宅の居間にいながらにして世界中の出来事を同時に見ることができるようになった。つまりこうした生中継において私たちは初めて、遠い場所への瞬間的なワープが可能になったと言える。だからヴィリリオは、ここで実現された速度を「絶対速度」(例えば、本間邦雄訳『電脳世界』産業図書、10頁) と呼ぶ。逆に言えば、それまでの映画を見るときには、観客は「絶対速度」によって瞬時に移動できていたわけではなかったわけだ。リュミエール兄弟が撮影したリヨンの光景を日本人が見るためには、船による何ヵ月もの移動期間を待たなければならなかったわけだし、『ローマの休日』でさえ、そのフィルムをハリウッドから飛行機で日本に運ぶ時間が必要だっただろう( 付け加えれば、映画観客自身もテレビとは違って、交通機関で移動しなければ映画館へとたどり着けなかったわけだ) 。だから映画が私たちに可能にした移動速度とは、あくまでも「相対的な」ものでしかなかった。フィルムという物質を移動させるために必要なタイム・ラグを消去させることが、映画はどうしてもできなかったからである。したがってヴィリリオ的な「速度」のメディアという観点からすれば、映画は「絶対速度」を実現した衛星生中継に比べて極めて中途半端なものでしかなかったということになるだろう。
 しかし、そうだろうか。本当に映画は、未完成な衛星生中継でしかなかったのだろうか。むろん違うと言えよう。確かに、目的地に少しでも速く到達することを目的とするメディアという意味でなら、映画は( 飛行機に比べた船や鉄道のように)中途半端なものでしかなかったかもしれない。しかし人間にとっての旅行の意味は、目的地に速く着くという点だけにあるわけではあるまい。そうではなく、旅行の楽しみとは、移動のプロセスそれ自体にもあるはずだ。むしろ、そうした途中経過を楽しむためには、目的地に瞬時に着いてしまうことなどできるだけ回避されるべきことだとさえ言えよう。このような観点から見れば、映画は「相対的な速度」しか持たない発展途上の移動メディアであるどころか、逆に移動のプロセス自体を楽しませてくれる完成された娯楽メディアであったのだ。
 だから事実、映画における「移動」は、今述べたような仮想的な「旅行」だけを意味していたわけではない。たとえば『めまい』を見る日本の観客は、サンフランシスコという未知の街の光景がどのようなものかを知って楽しむだけでなく、走行中の自動車から捉えられた光景がゆっくりと移動すること自体を感覚的に楽しんでもいたはずだ。実際、そうした動く乗り物から捉えた光景による運動感覚は、映画史の初期から、観客を動員するための映画の主要な売り物だったのである。最も有名なのは「ヘイルズ・ツアー」とか「ヴァーチャル・ライド」と呼ばれるものであろう。これは走行中の列車の先頭から撮影された光景を、列車を模して作られた座席や窓からなる館内の前方スクリーンに上映して、人びとに仮想乗車体験を味わわせるものだった。窓からは扇風機で風を吹き込ませ、座席はモーターでガタゴトと振動させられたというのだから、現在の遊園地のアトラクション並にかなり凝った作りになっていた。ここでの仮想乗車体験においては、どのような目的地にいかに速く着くかということは問題にはならないだろう。観客が楽しむのは、あくまで移動しつつあるという途中の感覚自体なのだ。こうして映画は、人びとを未知の場所へ仮想移動させるメディアとしてだけでなく、移動の途中経過自体を楽しませるメディアとして捉え返されることになる。
 しかも実はこのこと( 途中経過を楽しむメディアとしての映画) は、たんに視覚的な移動経験の問題だけに止まるわけではない。ハリウッド的な物語映画の本質に関わるような重大な問題なのである。つまり物語映画は、物語の終わりに、恋人同志の結婚だとか村の秩序回復だとかいった目的( 終わり) が設定されたうえで、その終わりにいたる途中経過を楽しむ構造になっているだろう。だから物語上でも観客にとって大事なのは、目的の素早い達成というよりも( 恋人が何の障害もなく最初に結婚してしまったら、映画にならないだろう)、その途中経過自体であるはずなのだ。この点をヒッチコックは巧みに説明してくれている( 山田宏一・蓮實重彦訳『映画術 ヒッチコック/ トリュフォー』晶文社) 。彼によれば、映画で人びとを怖がらせるためには二つの方法がある。一つはサスペンスで、もう一つはサプライズである。例えば、何人かの男たちが会話をしているテーブルの下に、彼らの気づかないまま時限爆弾が仕掛けられているという場面を考えてみよう。もし観客を心底驚かせたいのであれば、観客にもそこに時限爆弾があることを知らせずに突然爆破させ、登場人物たちが吹っ飛ぶ姿を見せれば良いだろう。これが「サプライズ」である。それに対してヒッチコックは「サスペンス」の方法を取ると言う。つまり彼は、観客にだけは時限爆弾のありかを知らせるべきだと言うのだ。そうすれば観客はいつ爆弾が爆発するかとハラハラしながら、宙吊りの感覚でこの場面を楽しむことができるだろう。そしてその恐れられている結果( 爆破) は決して達成されてはならない。つまりこの「サスペンス」の方法は、物語の終わり( 爆破) を設定しておきながら、その終わりをどこまでも引き延ばして途中経過を楽しませるという意味で、「ヘイルズ・ツアー」と同じ構造になっているのである。それに対して「サプライズ」の方法は、終わりにいたるまでの途中経過を「サスペンス」としてじっくり楽しむ余裕もなく、瞬時のうちに終わりに到達することを求めてしまう下品な物語映画だとヒッチコックは侮蔑する。
 ヒッチコック的な物語映画における、「サプライズ」に対する「サスペンス」の優位。ところが映画の歴史は、ヒッチコック以降だんだんと「サスペンス」から「サプライズ」へと移行してきたのも事実だ。1960年代後半にヘイズ・コードというハリウッド映画産業の倫理規定が解除されると、たとえば恐怖映画は、その恐怖の対象を画面に写さないことによって観客を宙吊り感覚に置くものから、その恐怖の対象自体を直接的に描写して観客を脅かす映画( たとえば内蔵が飛び散るスプラッタームービー) へと変貌してきてしまったのだし、恋愛映画もまた、いつまでも喧嘩ばかりして結婚を引き延ばしていくロマンチック・コメディから、すぐにカップルが結びついて濃厚なベッドシーンを繰り広げる、直接描写の映画へと変化した。このような、映画におけるサスペンス文化の衰退の果てにこそ、「衛星生中継」も置かれるべきなのだろう。つまり、世界中の出来事を視聴者に待たせることなく瞬時に見せてくれるこのメディアは、完成された移動メディアであるどころか、出来損ないのホラー映画として私たちの前にあるのだ( 湾岸戦争の爆撃生中継は、まさにヒッチコックの批判する下品なサプライズ映画だろう) 。
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 こうして私たちは、ヴィリリオの図式を反転させ得たわけである。ヴィリリオにとって、映画は「相対的な速度」による移動しか実現できない中途半端なメディアにしかすぎなかった。しかし実は「相対的な速度」による移動は、反面では「サスペンス」として途中経過自体を人びとに味わわせるという積極的な価値を持っていた。しかもドア一枚を見せるだけで観客をドキドキさせるサスペンス映画の創意工夫と技術は、何もかもを瞬時に見せるだけの衛星生中継などよりもはるかに豊かな文化だったと言えるだろう。・・・むろん誤解しないで欲しいのだが、ヴィリリオもまた「絶対的な速度」が素晴らしいなどと言いたいのではなく、「衛星生中継」を批判するためにこそこの概念を提示したのだった。彼は、テレビ視聴者のインタラクティヴな反応によって、大統領や法律が瞬時に決定されることにまでなれば、民主主義は破壊されてしまうだろうと繰り返し批判する。なぜならヴィリリオによれば、民主主義とは決定をじっくりと「待つ」というサスペンス文化としてしか保たれないものなのだから。
 私も確かにそう思う。だが彼が現状の悲惨さを強調するために、このようなメディアの瞬時性をあまりに絶対的なものとして提示してしまうとき、それを相対化するような戦略を提起できなくなってしまうのではないかと私は心配なのだ。実際ヴィリリオは、そのような相対化の可能性を偶発的なアクシデントのなかにしか求めることができていない。たとえば彼が挙げるのは、ネルソン・マンデラの解放時間が予定より遅れてしまったとき、衛星生中継は出来事の瞬時の伝達であることを突如やめ、あたりに遊ぶ子供たちや通過する自動車をぼんやり眺めながら「なにかの出来事をひたすら待つ」ことのなかに私たちを置くこととなったという事例だ( 前掲書、 100頁) 。その瞬間テレビ・メディアは確かに、「サスペンス」性を意図せずして回復したのだろう。しかしこれはあくまで、アクシデント( 僥倖) にすぎないだろう。むしろ私たちの文明は、そのような偶然性に頼ることなく、極めて自覚的に「サスペンス」としての映画を( つまり「何かの出来事をひたすら待つ」途中経過の映画を) 作り得てきたのではないか。だからこそ私たちは、いま「衛星生中継」的なサプライズ文化が全盛となり、途中経過の映画が終焉しつつあるこの世紀転換期にあって、あえて「サスペンス」文化としてのヒッチコックをもう一度見る必要があるのではないか。それは、ノスタルジーに浸るためではいささかもなく、一刻も速く結論に到達してしまおうとする衛星生中継の全体主義的な欲望に抵抗するためである・・・。