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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[33]ドキュメンタリー、鬼塚君、単独性

 蓮實重彦は、土本典昭監督が水俣病問題を題材にして撮った一連のドキュメンタリー映画の中の一つ『わが街わが青春一一石川さゆり水俣熱唱』(1978年)について講演したとき、その中に出演していた胎児性水俣病患者の「鬼塚君」の素晴らしさをとりわけ強調していた(シグロ編『ドキュメンタリー映面の現場‐土本典昭フィルモグラフィから』現代書館、25頁)。

「その鬼塚君という人は、見ていて本当に素晴らしい青年といいますか、現実生活においても素晴らしいだろうし、また映画に撮られることによってますます素晴らしくなっていく一人の青年なのですが・・(後略)」

 こうした批評の言葉には、一瞬呆気に取られる者や怒る者もいるかもしれない。もともとこの土本作品は、胎児性水俣病患者の若者たちが自分たちの手で石川さゆりのコンサートを企画・準備し、開催するまでの集団作業の過程を記録することによって、簡単には解決できない水俣病問題の奥深さを人々に訴えたり、胎児性患者たちの「自立」の問題を考えさせたりするための「社会派」記録映画だったはずだろう。ところが蓮實氏は、まるでハリウッド映画のお気に入りの俳優でも褒めるかのように、一人の患者さんをスター扱いして「素晴らしい」などと言ってしまっている。それは、水俣病問題に関する人々の批判的意識を深めさせようとする土木監督の政治的意図を裏切り、この映画をただの映画的快楽の材料に貶めてしまうオタク的批評ではないのか? じっさい蓮實氏自身も、「鬼塚君が素晴らしい」と言ったすぐ後で、この映画が彼の素晴らしさを特権化することの代償に「鬼塚君におとらず必死に準備をしていたに違いない他の人たちを排除してしまっていることへの「割り切れなさ」についても率直に述べているのだ(26頁)。だから私たちはやはり、この映画から確かに感じとることのできる鬼塚君という「特定」の人物の個人的魅力などよりも、水俣病患者全員に関わるような「一般的」問題の方をこの映画から読み取るべきなのではないか・・・。
 いや、断じて違う。そうした考え方(あるいは蓮實氏の躊躇)は全く間違っていると私は思う。全く逆なのだ。「鬼塚君の素晴らしさ」を私たちに感じさせてくれることこそが、まさにこの映画の価値なのだ。それも単なる映画的快楽の問題としてではなく、水俣病問題への政治的貢献の問題として、そうだと言うべきだろう。なぜなのか。この映画を見に来る観客はたいてい水俣病問題に関する何らかの知識を予め持っていたはずだ。水銀中毒の恐ろしさ(ユージン・スミス氏が上村さん母娘の入浴を撮最った象徴的写真)やチッソの長年にわたる患者たちへの酷い仕打ちや裏切り、そして川本輝夫さんを初めとする患者さんたちの闘い(「怨」の旗)などについて、観客は新聞やテレビなど様々なメディアを通して既に知っているに違いない。だからもし土本監督のドキュメンタリー映画を見た観客が、そうした水俣病問題についての知識を少しばかり量的に増やしたからと言って、一体それにどれほどの政治的価値があると言えるだろうか。さしてあるとは言えまい。いやそれにそもそも、そうした「知識」は、誰もが知っている社会問題として、言わば希薄化されてしまった「水俣病問題」のイメージにすぎないだろう。つまり彼らは水俣病に関する様々な情報を前にして、これは日本の資本主義の矛盾を象徴するような社会問題だと呟くばかりなのだ・・・。だからもし何らかの政治的価値を持った水俣病映画があるとしたら、逆にそうした一般的で常識的なイメージとしての水俣病を解体し、よりなまなましくこの問題に触れさせるような映画でなければならないはずだろう。
 実はそれに成功している作品こそ、この『わが街わが青春』なのだ。ここで私たち観客は、まさに名前を持った胎児性患者さんたち一人一人が具体的に生きている姿として「水俣病問題」になまなましく出会うことになるのだから。それはたとえば、坂本しのぶさんが雨のなかで通行人にビラまきをしたり、ポスターを貼ったりするときの思いどおりには動いてくれない不器用な身体の動きだったり、うまく使えない言葉を必死に使って舞台上で挨拶する滝下正文君のその独特で奇妙な言葉使いだったりする。それらは、どうやっても一般化できない彼ら「国有」の充実した身振りとして私たちの感性を揺さぶるだろう。そしてその頂点にこそ、先述の鬼塚勇治君の「素晴らしい」慟哭の声や身振りがあると言うベきなのだ。滝下君の舞台挨拶の最中に、鬼塚君は精神を高ぶらせすぎたのか感極まって突然奇妙な叫び声を上げてしまい、そしてその興奮の声に共鳴するように他の患者さんたちも奇妙に身をよじらせるはじめる。一度このシーンを見てしまった私たち観客は、もはやこの瞬間の彼らのなまなましい身振りの記憶を抜きにして(ただの一般的社会問題として)水俣病問題を考えることはできなくなってしまうだろう。いまや私たちにとって「水俣病問題」と言えば、何よりも鬼塚君の叫び声の素晴らしさのことなのだ。これは決して蓮實氏が心配するように、鬼塚君という人間の「個性」を特権化させて済まそうということではない(「患者さんも人間なのだから、彼らの中にも鬼塚氏のようにユニークな人がいるのだ」とてもいった・・・)。そうではなく私たちが「水俣病問題」を考えるにあたって、それを他の何ものとも比較できないような、患者さんたち一人一人の「固有」で「単独」の体験の集積として感じ取ることができるようにさせ、そしてそこから、権力対民衆のような紋切り型的な図式とは違うやり方でもっと感性豊かに水俣問題について考えなおす姿勢を与えてくれることなのである。
 この事は恐らく、どのような優れたドキュメンタリー映画に関しても言えることであろう。たとえば小川紳介監督の三里塚シリーズを見た者は、『三里塚・辺田部落』(1973年)でヘエベエのおばさんが雨音を背景にして、大根を削ってお祭り用の男根の飾りを作りながら実に楽しそうに話しをする姿や、『三里塚・五月の空 里のかよい路』(1977年〉でもんぺ姿の柳川初枝さんが、猛烈な風(赤風)の中で畑仕事をしながら三里塚の「風」について話をするあの姿を抜きにしては、三里塚問題について考えられなくなってしまうだろう。一一一一じっさい波多野哲郎はヘエベエのおばさんについて「小川プロ映画の『スター』の一人と言ってもいいわけですけど、私はもうとっくにそのころ、ヘエベエのおばさんの大ファンになっていました」と率直に述べている(映画新聞編『小川紳介を語る一一あるドキュメンタリー監督の軌跡』フィルムアート社、132頁)。あるいはクロード・ランズマン監督の『ショアー』(1985年)を見た者は、ボンバさんが床屋で客に鋏を入れながら独特のリズムと発音の英語で、悲喜な収容所体験を延々と語り続けついには言葉に詰まってしまうあの緊張感に満ちた光景や、フレブニグさんが大勢の親しげなポーランド人に取り囲まれ、その一人が聖書の挿話によって虐殺を正当化する話をはじめてしまったときにも、それを聞いて黙って微笑んでいる、あの微笑みの顔を抜きにしては、もはやユダヤ人虐殺の問題について考えることはできないだろう。つまりドキュメンタリー映画の政治的役割とは、けっしてその映画が主題としている問題を「情報」として効率良く観客に伝達することではなく、その問題の当時者たちでなければ決して感じることのできない「単独」で「固有」の経験を、そうした「固有性」においてその現場で捉え、それを観客にも経験させることなのである。
 その意味では、現在のほとんどのテレビ・ニュース番組やドキュメンタリー映画は、決してこのような「単独性」を伝えようとはしないだろう。それらは社会問題の「一般的」な重要性だけを何とか効率良く伝達するために従事している(単独性は日常的で退屈な光景にすぎないと思われている)。たとえば数日前(5月23日)に私が夜中に見たアメリカ製のドキュメンタリー番組(『CBSドキュメント』)を例にとろう。そこでは、ALSという難病に罹った様々な人達が、音楽を作ったり、絵を描いたり、講演をしたり、本を書いたりといったそれぞれの個性をうまく発揮した、充実した人生を送っていることが映像で紹介され、それぞれの人がキャスターのインタビューに答えて、難病であることを受け入れて前向きに生きている事を誇らしげに語っていた(この番組の背景には安楽死を選んだALS患者がいることがある)。なるほど確かに素晴らしい「情報」を私たちに伝えてくれる番組だ(他のテレビ番組の水準を遥かに越えていると、皮肉でなく思う)。つまりこの番組は、ALSという難病の症状や進行の仕方が一様ではなく患者によって様々であり、その人生も死に彩られた暗いものとは限らないことを教えてくれるのだから。しかし私は決して、胎児性水俣病患者の鬼塚君や三里塚問題の柳川さんの場合のように、それらの患者たちの個々の名前をこの番組では覚えることができない。なぜなら、それぞれのALS患者は、そこからもっと「一般的な」問題(難病患者の人生)を抽出してくるための特殊な例の一つとしてしか紹介されていないからである。だから個々の患者さんは、この番組の趣旨にとって重要な、生きる「モットー」を一言で表したような言葉を要領よく語っただけで、すぐに次の人にバトンタッチされてしまう。だから私たちは、ヘエベエのおばさんが無駄話をしながら大根を丁寧に削る姿を延々と10分以上もじっくり眺めるときのように、彼らの姿を固有のものとして自分の胸に刻み込むことはできないのだ。つまりここには、それぞれの患者が生きているはずの「単独」で「固有」の生の経験が全く表現されていない。患者たちのあらゆる言葉や行為は、もっぱらALSという一般的問題の意味を構成するばかりで、見ていてほとんど息苦しいほどである。
 ・・・こうして現代のテレビ映像が一般的イメージとしての社会問題ばかりを伝達しつづけてしまっているとき、土本監督や小川監督の作品のように、人間の「単独性」や「固有性」をなまなましく捉えた映像があることは、私たちにとってますます貴重なものにならざるを得ないだろう。