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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[32]ピロピロ笛あるいは存在の情けなさとしての神代映画

 神代辰己の傑作ポルノ映画の一つである『悶絶!! どんでん返し』(1977)の中頃に、いかにも神代的とでも言うしかない、ある印象的な場面が出てくる。チンピラやくざ達が、売春や美人局をやらせてはその上前をはねている不良女子高生たちに対して、ある奇妙な身体的訓練を課すシーンである。彼女たち三人は四つんばいになって横に並び、その剥き出しの尻を突き出して何やら必死にいきむかのように唸っている。その周囲を『涙の連絡船』を歌いながら(♪今夜あも、汽笛いが、汽笛いが)徘徊するチンピラとその親分の情婦谷ナオミは、その歌の節回しに合わせて竹棒で彼女たちや畳を叩いては、その「いきみ」を鼓舞しているようにも、あるいはたんに彼女たちを虐待しているようにも見える。観客としては、一瞬何を意味するのか良く分からない、実に奇妙な光景である。
 しかし次の瞬間、誰もがその光景の意味を理解する。谷ナオミが、一人の女子高生の股ぐらから、ピロピロ笛(子供が息を吹き込むとその先端がピロピロと言うよりもビーといった音をたてて延びては縮む、あの紙製の玩具のことだ)の先端を手で引っ張りだしてみせるからである。つまりこのシーンは、女子高校生たちが「性器」の締まり具合を自分でコントロールできるようになるために(そしてむろん男たちを早く「果てさせる」ために)課された訓練だったのだ。やがて実際、彼女たちは必死のいきみの果てに次々と、あのビーという間抜けな昔を立てて、その笛を性器の力で伸び縮みさせることに成功し始める。♪汽笛いが「ビー」、汽笛いが「ビー」・・・もう見る側としては爆笑するしかない、それでいて妙に物悲しい、素晴らしいシーンである。
 ・・・私にはこのシーンが、「ポルノ映画」というものの本質を露わにしてしまったシーンであるように思えてならない。むろん、これは奇妙な物言いにしか聞こえないかもしれない。なぜならごく常識的に考えて、ポルノ映画とは、男性の性的欲望の対象としての女性の裸体や性行為の姿を描写する映画のことなのだから。男性観客たちは、女性への幻想的欲望を自ら喚起させるために映画館へ赴き、監督たちはその欲望を満たしてやるようなエロチックな映像を彼らに示して見せる。それこそ、(フェミニスト達も批判するような)ポルノ映画をめぐる文化的コミュニケーションのはずだろう。ところがこのシーンにおける女子高生たちの姿ときたら、尻を露にして性器を使っているとはいえ、とうてい男性のエロチックな欲望の対象となるようなものではないだろう。むしろ反対にそれは、みっともなく、情けなく、滑稽な姿でさえあって、だから男性観客としては性的欲望などすっかり減退させられて、ひたすら笑いころげるしかないのだ。だからこのピロビロ笛のシーンはむしろ、ポルノ映画の中にあっては極めて特異な、反=ポルノ的映像と考える方が普通だろう。
 だが、簡単にそう言って良いのだろうか。男性の欲望のために作られたポルノ映画の性行為や裸体のシーンは、本当にこのピロピロ笛のシーンの「惨めさ」とは全く無関係と言えるだろうか。たとえばポルノ映画の本来の「裸」のシーンについて考えてみよう。私たちはほとんど当然のように、視覚的対象としての女性の「裸体」は、必ずエロチックなオーラを放って男性観客を性的に興奮させると信じている。しかし例えば上野昂志は、ある映画の中のある「裸」の場面に関して次のように述べている(『映画=反英雄たちの夢』話の特集社、1983年、23-24頁)。

 まさしく、裸にするということは決定的なことなのだ。・・(中略)・・わたしたちは.素っ裸にされることで、それまで維持してきた個別性を剥ぎ取られるのである。そこから、裸の自分を睨めまわす、衣服を着けたものへの屈従はただの一歩だ。まことに、G・バタイユのいうがごとく、裸にするということは、「危険性の少ない殺人の等価物」たり得ることなのである。××の裸体の表情は、よくそのことを示していた。・・(中略)・・裸にされた瞬間のおびえを、そしてそれをきっかけにいままでの自己を一挙に放棄してゆく過程を、彼女は、よくその肉体で表現していた。そこに現れたのは、端的な「弱さ」、たんに人間的な、性格的な弱さではなく、人間が肉体をもって存在していることの脆弱さに由来する、「弱さ」それ自体だったのである。

 実は正直言って、この引用で「彼女」とした所は原文では「彼」であり、××と私が勝手に抹消した所は本当は川谷拓三であり、ある場面とは実は『県警対組織暴力』(1975)という実録やくざ映画において下っ端組員の川谷が乱暴な警察官(菅原文太)に取り調べ中に「裸」にされるという暴力的場面である。したがってここで上野が論じている「裸」の脆弱さの問題は、女性の裸や性的欲望に関するものではなく、他者の「暴力」を前にして完全に無防備にされてしまったときの「裸」の「脆弱さ」や「みっともなさ」を意味しているわけである。しかしそうした「裸」の「脆弱さ」は、こういう暴力境面においてだけでなく、男女の性行為の場面においても同様に存在しているとは考えられないだろうか。確かに性的場面における裸体は、「観念として」はエロチックなオーラを放っているかもしれないが、しかし「具体性として」は常に、人間の身体の「弱さ」や「惨めさ」をも露呈させてしまっていると私は思うのだ。実際、裸になって獣のように絡み合い、喘いでいる男女の姿など、冷静に見れば「情けなく」「みっともない」姿以外の何ものでもないだろう。だから私たちは、ハードコアポルノの本番場面を見続けたとき、かえって何か惨めな気分に陥ってしまうのだ。なぜ自分はこんなに「惨めな」「みすぼらしい」人間の姿を見たいなどとあれほど欲望していたのだろうかと。
 こうして実は、全てのポルノ映画の性的場面は、ピロピロ笛の場面と同様に、滑稽でみすぼらしいものなのだ。しかし普通のポルノ映画においては、そうした具体的な裸体の「惨めな」表情を「観念的」な約束ごと(欲望の仮想的充足としての性イメージ)によって覆い隠してしまっているにすぎない。それに対して、ピロピロ笛を性器からいきみだす女性たちの「身体」は、性的欲望の幻想的オーラを脱ぎ捨てることによって、むしろ脆弱な身体としてなまなましく輝いていたと言えよう。この輝きこそが、神代的なポルノ映画の魅力なのである。だからそれは、この『悶絶!! どんでん返し』のどの性的場面に関しても言えることである。そもそもこの映画は、あるエリートサラリーマンがチンピラの親分に犯されてしまった結果、おかまとしての快楽に目覚めて彼の情婦となり、元の情婦(谷オオミ)とともに奇妙な三人同棲生活を送るという物語を持っていたはずだ。だから私たちはこの映画の様々な場面で、ポルノ映画の性行為場面における「男性」や「女性」に関する観念的約束ごとの常識を次々と揺すぶられてしまうことになる。たとえばチンピラ親分が、一度犯したサラリーマンに(美人局の現場で)再び出会って「どうして、あれ以来遊びに来てくれなかったんだよー」と不気味な甘え声を出しながら抱きつき、再び無理やりの性行為に及ぶとき、私たちは思わず抱腹絶倒するしかない。なぜなら、この二人の男性の性行為は、同性愛者の「観念的」なエロチシズムを表現した性行為でさえなく、たんに無骨な二人の男の裸体が「みっともなく」絡み合っているようにしか見えないからである。つまりここでも神代は、性行為から観念的オーラをはぎ取って、二つの無骨な裸体の絡み合いとして額客にそれを提示しているのである。
 こうして神代辰巳はいつも、言わば文字通り人間の身体を「裸」にしてしまうのだ(逆に言えば、普通のポルノ女優たちは、「裸」になることによってもう一つ別の「性的オーラ」という衣装を着るにすぎない・・・そう言えば「激写」の篠山紀信がどこかで、日活ロマンポルノの女優は脱いでもあまりに堂々としていて、まるで別の衣装を着せたようだったと述べていたように思う)。しかも神代映画にあっては、それは単なる「性」の問題に止まらない。たとえば彼の遺作となった『棒の哀しみ』(1994)を思い出そう。そこでは主人公の有能なやくざ(奥田瑛二)がやはり、みすぼらしい「裸」にされてしまう。それを象徴するのが、腹をドスで刺される度に針と糸を使って自分で複を縫い合わせてしまうシーンだろう。普通の映画であればこのシーンは、主人公のやくざが自分で自分の傷を(痛さを堪えて)縫い合わせてしまうその意思の「強さ」を描いたシーンになっているはずである。ところがこの神代映画にあっては、決してそうは見えないのだ。裸になって床に横になり、(まるでボタン付けをするかのように)針と糸を使って自分の傷を丁寧に縫い合わせて行く奥田瑛二の姿は、「強い」どころかむしろ、ピロピロ笛をいきみだす女たちのように「滑稽で」「みっともない」姿にしか見えてこない(むろん、それこそが魅力的なのだが)。つまり神代映画にあっては、ポルノであってもなくても、登場人物たちはつねに「裸」の姿で登場する。人間たちが、あらゆる文明的な虚飾をはぎ取られ、身体の「脆弱さ」を剥き出しにされた「情けない」状態において輝きだすこと。それが神代映画の魅力なのである。
 ・・・そしてその魅力は言うまでもなく、映画カメラというテクノロジーの本源的特徴とも重なってくるだろう。かつてベンヤミンが言ったように、そもそもカメラとは様々な対象から存在の「オーラ」を取り除いて捉えてしまうテクノロジーのはずだった。画家とは違ってカメラは、王様も乞食も虫けらも全く平等な「モノ」として捉えてしまうのだから(裸の王様!)。しかし、そういう残酷な視線を持つカメラの前に立たされた映画俳優たちは、何とかカメラに抗して、自分の存在としての「オーラ」を取り戻すための様々な演技的努力(豊かな表情や身振り、そして感情を込めた語り)を行ってきた。そこから映画的「オーラ」を宿らせた「スター」たちが次々と登場してきたわけだ。これに対して神代は、そうした俳優独特の「オーラ」(かっこ良さ)をはぎ取り、彼らが「脆弱で」「情けない」状態のなかでしか演技できないように演出してしまう。そしてそこにもっと別の、なまなましい輝きを宿らせようとする。それは恐らく、神代辰己の個人的な生き方や人生哲学の問題と係わっているのだろう。しかしそれだけではない。それは映画をテクノロジーの本源へと差し戻す、極めて映画的な(そして倫理的な)作業でもあるのだ。