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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[26]ワイプあるいはテクノロジーとしての映画

 映画研究者の中村秀之は、アッバス・キアロスタミの『桜桃の味』について書かれた短いエッセイの冒頭で、なぜかカール・ドライヤーの『奇跡』における「ワイプ」の素晴らしさに触れている。「唐突なワイプの用法に呆然として涙が止まらなくなるという驚き・・・」と。「ワイプ」と言えば、物語映画における場面転換のときに、画面の端から端へと縦の線が(まるで車のワイパーのように)ゆっくりと移動することによって次の場面へと徐々に転換するという、あの技法である。『奇跡』においても、行方不明になった男を家族の者たちが探す場面において、その探索の場所が次々と移る度にこの「ワイプ」が数回使われるのであり、とくに珍しい用法なわけではない。にもかかわらず彼がそれに涙してしまったというのは一体どういうことだろうか。
 たとえば、クリスチャン・メッツには、中村の感動が全く理解できないに違いない。メッツは、ワイプを、アイリス、フェイドアウト、ディソルヴ(オーバーラップ)などとともに「執拗に(観客の)視線を誘う、物語外の素材に頼った句読法上のシニフィアン」の一つを構成すると考えているからだ(「物語映画における句読法と境界表示」『映画記号学の諸問題』浅沼圭司監訳、書肆風の薔薇、所収)。つまりメッツにとってワイプは、いま私が示した常識的理解のとおり、映画の場面展開の切れ目であることを「物語外の素材=白線」によって示すという、句読点的な役割を果しているのだ。いかにも「人工的な」白線が、ゆっくりと画面上を移動することによって、それまでの映像の「自然な」流れが断ち切られ、ここが場面の転換点であることが観客に明確に知らせているというわけである。しかしこのように、物語映画の語りのための技法としてワイプを理解しているかぎり、ワイプの出現に涙してしまう者がなぜいるのかはけっして分からないだろう。それではまるで、本を読んでいて文章の区切りに現れる点や丸などの句読点に涙していることになってしまうのだから。たから私たちはこうしたメッツの考え方、つまり「観客はいつでも、語られる説話、物語にそれら(ワイプのような境界表示的技法=引用者注)を様々な度合いで組み入れている」という常識的な考え方からは離れたところから、「ワイプ」という技法について考え直したいと思う。
 しかしメッツはさすがに、この論文でなかなか鋭いことも指摘している。それを参考にすることにしよう。彼は、ワイプのような映画上の人工的な句読法が、実はある目立たない別の(彼の言い方では「シニフィアン・ゼロ」の)句読法を隠していることを指摘しているのである。それは「ダイレクト・モンタージュ」一一映画においてとくに何も句読法が示されない通常のショットとショット、の「切れ目」、というよりは正確には「モンタージュ」なのだから「接合」と言うべきだろう一一のことである。つまり映画においては、観客には「自然に」映像が流れているように見えている時でも、(ワンシーン・ワーショットでない限りは)実はショット転換のたびごとに「切れ目」(つまり句読点)が頻繁に出現しているのである(当たり前だが)。たとえば、向かい合って二人の人物が会話している場面でその二人が交互に捉えられるとき、ショットはその交替の度に視点を180度反対方向へ瞬間移動(ワープ)させているだろう。良く考えてみればこれほど不自然で人工的な映像の「切れ目」はあるまい(まるでSF映画だ)。ところが、ときどき場面転換のときにワイプのような目立った「境界表示記号」が「人工的」に挿入されると、そのことによって観客は、こうした一場面内におけるショット転換の「不自然さ」を忘却してしまうというのだ。言わばワイプは、映像による語りを「自然化」するイデオロギー的な効果を持つというわけである。
 むろん、この説明でもワイプは相変わらず物語を自然な流れとして見せてくれるだけの退屈な用法のままだ。しかし、この考察はヒントにすることができる。つまり逆に考えれば良いのだ。メッツは、ワイプという人工的な句読法が、通常のショット転換の不自然さを隠蔽すると言った。しかし私は逆だと思う。つまりワイプは、通常のショット転換が全て「不自然」なものであったことを観客に思い出させてくれるものなのだ。ゆっくりとこれ見よがしに白線が移動してショット転換が示されるとき、観客は全てのショットがこれと同じようにいつも機械的な「不自然さ」によって繋がれたものでしかないことを思い出す。つまりワイプが出現することは、テクノロジーとしての映画の、ギクシャクとした不自然なリズムが裸になってしまうことなのだ。
 ここで私たちは、『丹下左膳余話・百万両の壷』(山中貞雄監督)におけるワイプの素晴らしさについてどうしても思い出してしまう。この作品は、まさにワイプを繰り返すことによってその機械的とも言うべき、「断続的」な映画のリズムを形作っていたからである。たとえば矢場のおかみが丹下左膳に向かって、殺された客の残した男の子のことを、「誰があんな汚い子供を家に入れてなんかやるもんか。はっきりあの子に言ってきてやる」と宣言して立ち去ると、ワイプになって次の場面ではもうおかみは自分の家で男の子にご飯を食べさせている。あるいは別の場面で、その子が、竹馬に乗りたいから買ってくれとねだるのをおかみが駄目だと叱ると、ワイプになって次の瞬間、おかみは彼の竹馬乗りを見守っている。こうしてこの映画においては、ワイプの前で語られていたこととは逆のことがワイプの次の瞬間に一一その間にあるべき物語的な説明が全て省かれて一一一気に生起しているという、断続的で飛躍的なリズムによって構成されているのである。こうしたワイプの用法に対して、それが通常のショット転換の不自然さを隠蔽しているなどと言ってみても始まるまい(確かに間違いではないだろうが)。そんなことを考える前に、私たちはこの山中のワイプ自体が作りだしている機械的なリズムの心地よさに身体が勝手に反応し、爆笑してしまっているはずなのだから。
 つまりワイプという技法が感動的だとするならば、それがテクノロジーとしての映画が本質的に持っている特徴としての「断続性」を露わにしているからである。映画はそもそも、一秒間に24コマの写真が「断続的」に映写されることによって成立しているのであるし、全てのモンタージュは、ショットとショソトを機械的な「断続性」において接合させたものにすぎない。だから、映画には自然で滑らかな映像の流れなどそもそもないのだ。ワイプは、そのモンタージュによる不自然な「繋ぎ」をスローモーションで強調して見せることで、こうした映画の「断続的」な本性を観客に示してくれるのである。だからむろん、それはワイプでなくとも良いわけだ。たとえば、メリエス作品や松之助の忍術映画などの初期映画においてしばしば使われた、人物が突然パッと消えたり、瞬間的に遠くへ移動していたり、巨大なカエルに変身していたりといったトリック撮影の場合にしても同じである。これらの場面を見る楽しさは、けっして人物が突然消えたり変身したりしてしまうというその神秘性や魔術性にあるわけではないだろう(当時の観客においても同じであった)。そうではなく、ここでもワイプの場合と同じように、人物の瞬間的な移動や変身において露わにされた、テクノロジーとしての映画の「断続的」なリズムを感じるところにその楽しさはあるはずだ。逆に言えば私たちは、『百万両の壷』のワイプにおいて、物語が「パッ」と次の瞬間に別の状況に「変身」していることを楽しんでいたと言えるだろう。
 ところがメッツはやはり、このトリック撮影についても先と同様の主張を繰り返す(「トリックと映画」、前掲書所収)。映画において人間が突然カエルに変身したり、透明人間の足跡がひたひたと床に付けられたりしたとき、もしそれがトリックにすぎないと思っていたら観客は少しも面白くないだろうと言うのだ。つまり、たとえそれがトリックであることを論理的には知っていでも、あえてそれを感性的に否認して、本当に人間が巨大なカエルに化けてしまったと思い込めたとき、観客は始めて映画を楽しむことができるということになる。こうしてメッツにとっては、トリックの否認は、映画観客の快楽を心理的に支える「映画愛」なのである。しかし、今までみてきたように、それとは異なる「映画愛」というのも存在するのではないか。つまり、それがただのトリック撮影なのかそれとも本当の変身なのかといった真偽判定に関する論理的思考など宙づりにして、まず映画内の人間が次の瞬間に「パッ」と消失しているというその「断続的」な運動感を身体的に感じてしまう楽しみ方もあるのではないか。言い換えれば、「変身」における物語的な意味よりも、「変身」が生み出す映画的リズムによって映画を愛することも可能なのではないか。つまり私は、物語の「理解」においてではなく、テクノロジーとしての映画に感覚的に「同調」するところにおいてこそ、「映画愛」はあると言いだいのだ。
 ・・・たから、中村秀之が『奇跡』のワイプに涙してしまったとするならば、それは彼がまさに、テクノロジーとしての映画の運動感や断続性において映画を愛しているということに他なるまい。