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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[12]顔写真の政治学/「酒鬼薔薇聖斗」問題をめぐって

 ここに一枚の写真がある。半柚の白ワイシャツにネクタイをきちんと締め、両手に白い手袋をした中年の男性が、一台の自転車を両手を使って腰のあたりまで持ち上げている。その斜め前方には一台のバンが止まっており、その後部のドアは大きく開けられている。どうやら彼はこの自転車をそこに運び入れようとしているらしい。こう説明すれば、一応何の変哲もない写真ではある。だがそうかといって、この光景が何を意味しているのかはいくら写真をじっと見てもさっぱり分からない。この男性は、自転車をバンに乗せてピクニックにでも行こうというのだろうか? だがそれにしては律儀にネクタイをしているのが何とも奇妙だし、何よりも白い手袋が不気味だ。自分の自転車を運ぶのに手袋をいちいちはめる人間がいるだろうか? それに彼の表情も楽しそうというわけでもない。こうして見るとこの男性は、どうやらピクニックに出掛けようとしているのではではなさそうだ。では、ピクニックの準備ではないとすれば、人はいかなるときに手袋をして自転車をバンに運び入れるのだろうか? 彼はいったい誰なのだろうか?
 答えは実は簡単である。この写真を掲載している『週刊朝日』1997年7月18日号(34頁)は、その写真の下に「少年が淳君の頭部を運ぶときに使ったとされる自転車」というキャプションを付けているからである。さらに左頁上には、「総力特集淳君事件 少年Aの暴走」とあり、写真の右手には「評判のスポーツ、ピクニック一家になぜ」という太字のタイトルが踊っている。こうした文字を読む事によって私たちは、この写真が神戸の小学生殺人事件に使われた自転車を、中学生の容疑者宅から捜査官が連び出すところであることを理解するであろう。だからこそ彼は手袋をして真面目な表情で自転車を運んでいるのだと。それにタイトルからすれば、どうやら容疑者の少年一家はこの自転車を使ってピクニックに行ったことさえあるのかもしれない。そんなことまでをも私たちは、この写真から想像できるであろう。
 こうしてこの写真は、キャプションによって明白な意味を持つことになる。これは神戸の少年殺人事件の捜査をめぐる報道写真なのだ。しかしもう一度元に戻って考えてみよう。キャプションのない写真そのものとして見た時、私たちは何かをここから理解できただろうか。そこに自転車があり、中年の男性があり、バンがある。それだけだ。つまりこの写真そのものは、神戸の少年殺人事件について何かしらの情報を私たちに伝えてくれるわけでは決してない。キャプションの言葉が、報道すべき意味内容がそこに存在しているかのような装いを与えているだけであって、この写真自体は(事件について)何も報道しない報道写真であるとさえ言えよう。報道しない報道写真? だが私は、この写真を特に意味のないダメな報道写真として取り上げているわけではない。そもそも全ての報道写真とはそういうものなのだ。報道写真は、ある事件について何も報道しない写真のことなのである。まず第一に、報道写真はほとんど「事件」そのものを捉えることはない。今度の事件についてでも、神戸の小学生が首を絞められた瞬間や、小学生の頭部を切断した瞬間、あるいはその頭部が校門前に置かれた光景を捉えた写真など、当然のことながらどこにも存在しない。報道カメラマンは必ず、事件が起きて全て終了してしまった事後にやってきて何かの写真を撮るだけなのだから。だから彼らが撮ることができるのは、事件の周辺にあるごく日常的な光景でしかない。何の変哲もない中学校の校舎、犯行のあったタンク山、それに容疑者宅の自転車といった具合だろう。それらは、日本中どこでも撮ることができるような光景ではないか。そこに間違って北海道の中学校の校舎や静岡県の山の光景が紛れ込んでいたとしてほとんどの人間には区別がつかないだろう。それを彼らは、あたかも意味ありげに撮るだけのことである。こうして報道写真は、事件についての情報を伝達していないことになる。
 こうした報道写真の無力さを潜在的に知っているからこそ、報道機関は被害者や容疑者の顔写真を掲載しようとするのである。顔さえあれば、私たちは事件に接近したような気になれる。被害者や加害者の顔は、まさに他の事件とは違った、その事件の固有性を伝達できているだろう。そう考えるわけだ。だが本当にそうだろうか。実は顔写真もまた、本当は何も伝達していないのではないか。私たちが、酒鬼薔薇聖斗の顔写真を見たとして、そこから何を知ることができるというのだろう。ちょっと神経質そうな顔だねだとか、やっぱり普通の人にしか見えないよ、等といった批評をするだけで、結局は何もこの事件についての理解を深めることにはならないであろう。従ってむろん、(すでに公表されている)被害者の顔写真も何の意味もない。彼の顔を皆で見ることによって、私たちはこの事件についでの恐怖と不安を共有しようとしていただけのことであろう。つまり顔写真は、「事件」について接近できたような「気分」を私たちにもたらすためだけに機能しているのである。むろん本当は何も知ってはいないのだが。
 いや実はこのことは、顔写真どころか事件そのものを記録した写真があったとて変わるものではないだろう。たとえば、酒鬼薔薇聖斗が被害者の首を切断するプロセスを捉えたビデオ映像があったとして、それを私たちが見ることにどのような意味があるのだろうか。その映像は、ある少年の首が切られるプロセスが記録された「残虐映像」(ホラービデオ!)として楽しまれる以外に何か私たちに役に立つことがあるのだろうか(コンビニ強盗の決定的瞬間を捉えた記録映像がテレビでどのように扱われてきたかを思い出せ)。むしろその残虐性を前にした私たちは、事件に対するあらゆる思考と判断を停止せざるを得ないだろう。従って、事件そのものを捉えた写真というものもまた、何も伝達しない無力な報道写真であることに何ら変わりはない。だからこそ例えば、クロード・ランズマン監督は、ナチスによるユダヤ人虐殺に関するドキュメンタリー映画を製作するにあたって、虐殺についての一切の資料映像を使うことを拒絶したのだ。彼はただ生き残った人々にインタビューする映像と現在の収容所の跡地の映像からのみ映画を構成した。そして、彼は次のようにさえ言う(鵜飼哲・高橋哲哉編『「ショアー」の衝撃』未来社、122頁)

 かりに私が、SSの撮ったあるフィルム一一撮影は厳しく禁止されていたから、それは秘密のフィルムだ一一を見つけたとしよう。そこにはアウシュヴィッツの第二焼却炉のガス室で窒息させられた3,000人のユダヤ人が、男も女も子供もいっしょにいかにして死んでいったかが示されているとしよう。もしもそんなフィルムを見つけたら、私はそれを人に見せないばかりか、破棄してしまうことだろう。なぜそうするのかを言うことは私にはできない。それは自明のことなのだ。

 なぜ破棄しなければならないのか。それが何も伝達しないからだ。それを見ることは私たちにアウシュビッツについての思考をいささかも喚起しない。それは史上最大の残虐映像として、つまりはスペクタクルとして消費されるにすぎないだろう。
 ではなぜこうなってしまうのか。原理は単純だ。「 見ること」は「知ること」ではないから。それだけのことである。あるいはもう少し抑制していえば、「見ること」と「知ること」の間には微妙なズレがあるからだ。酒鬼薔薇聖斗の顔を「見ること」は、彼の犯罪について「知ること」とは違うであろう。私たちは彼の犯罪が「知りたい」のではないのか? 彼の犯罪について考えたいのではないののか?(もし「見たい」のであるとすれば、それは単なる猟奇的な趣味にすぎない)だとすれば、私たちは犯罪事実の経過を言葉で「知る」べきなのだ。あるいは、彼の「言葉」を通して彼のこの犯罪についての「考え」を「知る」べきなのだ。この「言葉」と「事実」とを突き合わせて行くこと以外に、この事件に接近し、理解する方法はあるまい。ところが私たちはしばしば、「見ること」と「知ること」を混同してしまう。上手く理解できない事件にいらいらして、顔写真や犯行の写真を「見ること」によってその気分を解消してしまおうとする。つまり「見ること」によって「知った」かのような錯覚が得たいのである。いや映像文化の飛躍的な普及が、そのような錯覚を私たちに蔓延させているのだ。犯人の顔写真や事件の周囲の映像を「見る」ことによって、事件についての情報を「知った」かのような錯覚が。
 だから私たちは、この錯覚から目覚めなければならないだろう。酒鬼薔薇聖斗の顔写真を見ても私たちは何も知ることができないのだと気付かなければならない。そして、そもそも被害者の顔写真を見たことによっても何も知ることはできなかったことを思い出さなくてはならない。映像は「知ること」に関しては全く無力であり、報道写真は私たちに何も報道していないのだと。この無力さを直視することによってしか、私たちは写真誌フォーカスの愚行を根本的に批判したことにはならないだろう。少年法だとか、人権保護とかの問題には収まらない「写真」の問題がここにはあるのだ。