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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[9]カメラの眼を持った男

 蓮實重彦の『反=日本語論』(余談だが、多分彼の最高傑作だと思う)の、ちくま文庫版解説として、彼の妻である蓮實シャンタルが興味深いエッセイを書いている。「二つの瞳」と題されたそのエッセイは、まさに彼女自身の視線(瞳)と夫の視線(瞳)の特徴を比較対象したものだ。彼女は、「あるものをじっと深く見つめればそれを深さにおいて捉えることができる」と信じているため、様々な物や人を凝視する習憤がある。「ちらりと視線を送ること」は「愛情を欠いたよそよそしさにつながるように」思えてどうしてもできない。対象物を理解し、愛するためには凝視する必要があるのだ。こうした自分の「視線」を彼女は「集中的な視線」と呼ぶ。それに対して彼女は、夫の視線を「包括的な視線」と呼ぶ。夫と一緒に外出して同じ出来事を目撃し、彼女自身がそれを凝視しているとき、夫の視線はさまざまなものの上を揺れ動いて」いるようにしか見えない。しかし帰ってきて夫に確かめてみると、確かに夫は自分と同じようにその出来事をしっかり見て記憶にとどめているのである。どうやら彼女の夫は、見る対象を、その周囲の広がりのなかで受容できる別の視線を持っているようなのだ。そしてその視線は、むろん彼女にも向けられる。彼女に注がれる視線は、いつもそこにとどまることなく、なにか彼女を「世界の中に位置づけよう」としているかのように、周囲の「さまざまなものの上を揺れ動き、時折また」彼女に戻って来るというのだ。
 こうした「二つの瞳(視線)」の差異はどこから来るのだろうか。彼女は判断しかねているようだ。「これが、日本人である夫の特質なのか、それとも彼独特のものかはにわかには断じられません」と言うのだから。しかし、この差異は日本とヨーロッパの文化的な差異から生じたものだと断定する論者もいる。『高校生のための批評入門』(筑摩書房)にこのエッセイを転載したうえ、それに高校生向けの解説(「思索への扉」)を付したある筆者(署名がないので、同書4人の編者のうち誰か分からない)がそうである。彼によれば、ここで蓮實シャンタルが言う「集中的な視線」は、「自分と対象との心理的な隔たりをはっきりと意識してそれを埋めようとする」意味で西欧文化的な視線であり、従って「できることなら自分と他人との違い(区別)をことさら明確にしないままで置きたいという意志が無言のうちに人々を支配している」日本社会においては、回避されなければならないものなのだと。従って当然のことながら、対象物との区別を際立たせることなく曖昧にそれを受け入れてしまう彼女の夫の「包括的な視線は、まさに日本的な視線なのだと。
 しかし、ことはそう単純であろうか。「集中的な視線」が日本の通常の対面的コミュニケーションにおいてなるべく回避されているのは、経験的に言っても確かだとしても(小津映画のあの凝視など確かに全くの虚構だ)、はたして「包括的な視線」が日本文化独特のものと言えるのだろうか。恐らく、それは違うだろう。そもそも、蓮實シャンタル自身が、このエッセイを彼女の父親(ベルギー人)による「包括的な視線」の話から始めていたことを思い出さなくてはならない。彼女は、画家だった父親が自分をモデルにして描くとき、決して彼女の顔を凝視することなく、つねにちらりちらりと「動く視線」を投げかけていたことを記述している。つまりこのエッセイは、西欧人らにも「包括的な視線」を持つ場合があること、しかも筆者自身が父観の「包括的な視線」によって育てられたように、けっしてその視線は愛情を欠いたよそよそしいものとは限らないことを最初に認めているのである。つまり彼女の記述に従っても、「包括的な視線」はけっして日本的な視線ではないことになる。
 では、この「二つの視線」の差異は何の問題なのだろうか。私はそれは「カメラの視線」の問題だと思う。結論から言うならば、「包括的な視線lとはカメラの視線のことであり、実はこのエッセイで蓮貫シャンタルは、カメラのように世界を眺めることを夫から学んだことを(自分でも気付かぬままに)告白しているのだ。思い出して頂きたい。この連載で何度も論じてきたように、カメラはその前にある全ての事物をありのままに受容する「視線」を持つのだった。これはまさに、対象物を周囲の広がりのなかで受容する「包括的な視線」そのものであろう。つまり彼女の夫は、「カメラの視線」で世界を捉えるのである。これに対して彼女自身の「集中的な視線」は、ごく普通に人間的な視線と言うべきである。私たちは誰もが、自分が愛情や関心を持った対象を前にするとき、それらを特権化して「集中的」に凝視するのだから。たとえ日本人であっても、自分の恋人や子供を愛情を込めてじっと見つめない人間などいないだろう。
 こうして私たちは、集中的な視線/包括的な視線の対立を、人間的な視線/カメラの視線の対立として読み直すことができる。すると、このエッセイも全く違った相貌で見えてくるはずだ。たとえば彼女の夫は、目の前に起きた出来事をじっと凝視することなく、周囲の広がり全体に視線を投げかけつつしかも正確に出来事を把握してしまうのだった。しかし、そんなことが普通の人間(むろん日本人も含めて)にとって本当に可能だろうか。「集中的な視線」(じっくり観察すること)なくして、どうして出来事を正確に把握することができようか。むしろ、大抵の日本人もシャンタルと同様、遭遇した出来事に気を奪われてじっと見つめてしまい、周囲の事物に関心を払うことなどできないのではないか。つまりここで描写されているのは、実はカメラのように目前の事物をそのまま受容してしまう彼女の夫の特異な「視線」だったのだ。だから私たちは逡巡する蓮實シャンタルに教えてやらなけれぱならない。貴方が戸惑っている「包括的な視線」はけっして日本的な視線なのではなく、間違いなく貴方の夫に「独特のもの」であると。
 そして、よくよく考えれば彼女の夫=蓮實重彦は、そのような「包括的な視線」(カメラの視線)を用いた映画批評によって私たちを驚愕させてきたのだった。たとえばジョン・フォードの西部劇を論じるとき、様々な批評家が論じてきた撃ち合いの追力でも男同志の友情の美しさでもモニュメント・バレーの岩石砂漠の光景についてでもなく、彼は、誰も気付くことのなかった男女の腰にはためく「エプロン」の存在について指摘して私たちを驚かせただろう。あるいは、『地獄の黙示録』を論じたときも彼は、誰もが注目するへリコプターの編隊やら、王としてのマーロン・ブロンドの位置づけやらの問題ではなく、川を迦る船のエンジン音が映画上でオフになっているという(誰も気づいていなかった)事実を指摘したのだった。つまり蓮實重彦の映画批評の特徴は、普通私たちが「集中的な視線」によって登場人物たちのアクションやセりフや表情を中心にして映画作品を把握しているのに対して、それらの中心的要素だけでなく、私たちの視線が切り捨ててしまった視覚的・聴覚的諸要素(周囲にある雨、砂ぼこり、光と影、登場人物たちの衣装、背景の音など)をも「包括的な視線」によって捨い上げ、画面全体をありのままに受容してしまうところにあった。そうやってカメラそのもののように万遍なく画面全体を見てしまう彼の視線が、私たちには驚きだった。蓮實シャンタルのこのエッセイは、そうした蓮實重彦の特異な視線が映画に対してだけでなく、日常的な出来事や人物にも向けられていることを教えてくれている。彼はまさに「カメラの眼を持った男」と言うべきだろう。
 そしてこのエッセイはさらに、「カメラの視線」=「包括的な視線」がけっして機械的で愛情を欠いだものではないことを主張している。彼女は言う。「私の話に相槌をうつとき、彼は、私を見つめるのではなく、話している私を受け入れようとするかのようにやや瞳を伏せ、身を傾けているのです。」つまり、夫の「包括的な視線」は、確かにじっと見つめるという意味での愛情表現ではないが、彼女をありのままに受け入れようとする意味では間違いなく愛情表現なのだ。そして同様に、画面全体をありのままに受容しようとする、夫の映画への視線もまた愛情に満ちたものだった。言わばこのエッセイは、そうした夫の視線に潜んだ「愛情」を、かつて父親から受けた同じ視線の思い出に重ね合わせつつ確認するという極私的な作業を行っているとも言える。だがもちろん、私たちにとって重要なのは、あくまでも「カメラ」の問題だ。彼女のこの主張に従えば、事物を機械的にそのまま受容してしまう「カメラの視線」にも、同様の「愛情」を読み取りうるはずだろう。つまりカメラは世界をありのままに受け入れることで、世界に対する「愛情」を表現しているとも言える。だからこそ私たちは写真を眺めるとき、そこに写っているものに関係なく、ある愛しい思いを抱いてしまうのではないか(たとえば、面識のない人々の卒業アルバムを見るとき)。だからもしかしたらこの「カメラの視線」は、「人間的な視線」(事物を凝視する視線)以上に愛情に満ちたものなのかもしれない。

P.S. なお、「カメラの眼」を持った男が今月遂に東京大学の総長になったことは、カメラにとっても私たちにとってもどうでも良いことだ。