TopMenu



長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論


[7]『白い幻影』あるいは写真としての視覚

 手塚治虫の作品の中に、『白い幻影』という美しい短編がある。実はこの作品は、私たちが写真について考えるときに、実に深い示唆を与えてくれるのだ。
 物語の主人公は、ある若い女性である。彼女は、恋人と共に乗っていた船が遭難して自分だけが助かり、恋人を失ってしまう。悲しみに暮れる彼女は、それでも何とか前向きに新しい人生を生きようとし、他の男性とも付き合おうとする。ところが、その試みはすべて死んだ恋人の「白い幻影」によって妨害されてしまうのだ。彼女が白い壁やタイルを見たり、映画館に行って上映前の白いスクリーンに目をやった瞬間に、彼女が見た最後の彼の姿一一一溺れかかって両手を差し伸べて彼女に助けを求めようとしているように見える一一一がそこに出現してしまうからである。普通なら、この「幻影」は彼女の「幻覚」だと考えるところだろう。どうしても心理的に彼を忘れられないので、そうした幻覚が現れるのだと。ところが、手塚治虫はここで驚くべき、そして興味深い説明を、この「白い幻影」に与えている。この女性が医者に診てもらいに行くと、医者はそれが、彼女が恋人を最後に見たときに雷光がフラッシュの役割をして瞬間的に網膜に焼き付けられたイメージだと言うのだ。つまり、この「幻影」は、心理的イメージなどではなく、物理的に身体(眼の網膜)に刻印されたイメージということになる。従って、彼女がどんなに意識の上で彼を忘れることに成功したとしても、この「イメージ」は消えることなく彼女の目の前に出現してしまうだろう。実際この女性は、とうとう恋人を忘れることを諦め、この眼に刻印されたイメージと共に生涯を送ることを決意するのである。そして、ラストシーン。年老いた彼女が一人で平和に暮らしているところに、盲目の老人が妻に連れ添われてやって来る。彼女には一目でその老人が、かつての恋人であることが分かる。そして彼らの説明から、彼女の恋人は実は遭難事故の際、九死に一生を得て助かっていたのだが、視力を失った上に記憶も失ってしまったために彼女に会いに来ることができなかったということも分かる。だから、彼は今の奥さんと結婚して幸福に暮らしてきたのだ。それでも、彼の無意識的な記憶の中には一人の女性のイメージがぼんやりと住んでいて、誰だかは分からないのだが気になって仕方がない。それで、二人でその女性を探しているのだと言う。しかしこの主人公の女性は、自分がその探し求められている女性であることを明かさない。自分が生涯を共にしてきたのは、そしてこれからも共に暮らすのは「白い幻影」の方の恋人であるからだ。そして、二人の幸福を祈って彼らを見送るのである。
 このラストシーンの美しさについてはさておいて、ここでは私たちは「白い幻影」自体について考えなくてはなるまい。言うまでもなく、この「幻影」は写真のメタファーである。手塚はこの作品で、写真が現実の物理的な痕跡であることを教えてくれている。つまり主人公の女性が、どんなに記憶を消滅させても痕跡としての「幻影」を追い払うことかできなかったように、写真もまた私たちが忘却したり、追い払ったりすることのできない物理的実在としての記憶だと言えるだろう。これは一見当たり前のことのように見える。しかし普通私たちは、このことに気づかない。プライヴェートに撮った記念写真を主観的な記憶そのものであるかのように思い込んでしまっている。なぜが。私たちは写真を、いつも何かを思い出すための手段として利用しているからだ。例えば遠く離れた恋人や家族のことを思い出すために、あるいはかつての旅行の記憶を取り戻すために、私たちはそれらの人や風景の写真を眺める。逆に言えば、自分の個人的記憶やイメージと切り離してそうした写真を眺めることなどほとんどないはずだ。だから私たちは、プライヴェート写真を自分の主観的記憶の一部のように思い込めるのである。
 しかし考えてもみたまえ。自分が死んだ後でも、こうしたプライヴェート写真は残ってしまうのだ。つまり、写真は間違いなく私たちの意識を越えた物理的「記憶」として自分の死後も存在し続ける。たとえば飛行機事故や船の遭難事故の後には、関係者がみな死んでしまってもはや誰にとっても意味を持たなくなってしまった旅行中のスナップ写真が残されたりする。それを他人が見るのは、何とも言えない不気味な体験であるだろう。それを見ても、誰も何も思い出すことができない記念写真。そのとき、写真は主観的なイメージから切り離されて、何の意味もない物理的実在としての自己主張を始めることになる。それは私たちが慣れ親しんでいる写真の日常的姿とは全く異なっているはずだ。この意味でこそ、写真は「白い幻影」そのものなのである。
 だが、『白い幻影』が私たちに示唆してくれるのはこれだけではない。ここで注目すべきなのは、主人公の女性が自身の「身体」に「白い幻影」を刻印されていることである。つまり彼女にとっての白い幻影(=写真)は、普通の写真のように恋人を思い出したいときに取り出してみるものではない。彼女は自分の意志とは関係なく恋人の「幻影」を見つづけなければならない。従ってここでは、恋人のイメージを「見る」行為が、自分のコントロールが及ばない受動的な何かになっている。この点が大事なのである。すなわち、この物語が示唆しているのは、人間の「見る」行為自体がそもそも必ずしも主観的なものではないということである。私たちは実は、「白い幻影」のように見たくない何かを日常的に見てしまっているのだ。
 どういうことだろうか。私たちの眼はいつも、目の前の現実をそのまま取り敢えず受動的に受け入れている。しかし私たちが「意識して」見ているものはそのうちのほんの一部である。他の様々な細部は、目に入った瞬間からノイズとして切り捨てられ、忘れられてしまう。だが確かに私の眼の網膜は、私の意識の外でそうした細部を瞬間的には受容してしまっている。こうして私たちは確かに、「白い幻影」の女性のように自分の意志とは関係なく、様々なイメージを見させられてしまっているのだ。そしてそのうちの一部は意識の外で(白い幻影のように)身体に刻印されたままなのかもしれない。そして知らないところで私たちに影響を与えているかもしれない。言うまでもなく、これこそが「サブリミナル効果」ヘの恐怖である。私たちは知らずして、映画の中の1/24コマのコカコーラの映像を見てしまっていて、そのためにコカコーラが飲みたくなってしまうかもしれないという、あの恐怖だ。つまり「サブリミナル効果」とは、私たちの「見る」行為が徹底的に受動的なものを孕んでいることへの恐怖なのである。こうして『白い幻影』という作品は、「見る」行為におけるこうした受動性の恐怖を喚起するものだと言えよう。