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長谷正人
千葉大学文学部社会学・映像文化論

[1]探偵小説と写真

 コナン・ドイルの短編集「シャーロック・ホームズの冒険」冒頭の「ボヘミアの醜聞」という作品は、「写真」が近代社会のなかで果たしてきた役割を考える際に、実に興味深い論点を提供してくれると思われる。この作品は、ホームズがいかにして一枚の写真をある美女から奪い取るかという主題をめぐって展開しているからだ。その一枚の写真とは、まもなく結婚する予定のあるボヘミア王国が昔恋人だった女性と一緒に写っている写真であり、国王はその元恋人から、これを国王の結婚相手に送って破談にしてやると脅迫されているのである。つまりここで写真とは、国王がその女性とつきあっていたことの決定的な「証拠」とみなされていることになる。ホームズが、国王から証拠写真の存在を聞き出したときのその慨嘆ぶりを見てみよう。

「秘密にご結婚なさいましたか」
「いや」
「では、法的に有効な書類、または証書のようなものを、お渡しになりましたか」
「いや、渡しておらない」
「それでは、陛下のお心持ちはわからなくなってまいります。この若い女性がゆすりかなにかの目的で、陛下の手紙を持ち出したとしても、ご直筆である証明ができるとは思えません」
「筆跡が証拠になる」
「まさか、筆跡はまねられます」
「私の専用の書簡箋が使ってある」
「書簡箋は盗まれることがあります」
「私の封印を押してある」
「それも偽造できます」
「写真を持っている」
「買ったのでしよう」
「いや、二人でとった写真だ」
「おお!それはいけません。陛下はまったく軽はずみなことをなさいました」
「正常な神経を失っていたのだ−気ちがいざたであった」
「ほんとうに、とんだことをなさいました」

 写真以外の何物も、たとえばラブレターさえも彼らがつきあっていたことの決定的証拠にはなりえない。しかし、写真がある限りいかなる言い逃れもできない、とホームズは考えていることになる。これは、現代の私達も共有している、ごく常識的な「写真観」だと言って良いだろう。写真は、カメラという機械が正確に捉えた、ありのままの「事実」である。つまり、写真は人間のように嘘をつかないし、人間の「目撃証言」のように、あやふやな知覚と記憶などではない。だから写真は、最も決定的な、「事実」の、「歴史」の証拠になるという常識である。だが、この常識は本当に正しいと言えるのだろうか。写真は本当に「事実」の動かしがたい証拠として使用することができるのだろうか。私は違うと思う。写真は、そう簡単に「証拠」としての役割を果たしてはくれない。なぜか。確かに、カメラという機械は現実をありのままに捉えても、その写真を知覚し、認識するのは、再び人間のあやふやな「眼」だからである。従って私達は写真から上手く「事実」を読み取れるとは限らないのである。
 この国王の写真の場合についてもそうである。まず、そこに写されている男が確かに国王であるという「判断」は、カメラが下してくれるわけではない。それを見る人間自身が下さなくてはなるまい。そうすると「判断」はたちまち曖昧なものになってしまうだろう。日常的に私達もしばしば経験するように、写真に写っている人が顔をちょっと俯かせていたり、顔に影がちょっとかかっているだけで、それが誰であるのかの同定はたちまち困難になっ てしまうのだから。さらに、たとえ国王であることが誰の目にも明らかであるように撮影されていたとしても、ではどうしてこの二人が恋人であると「判断」できるのであろうか。この「事実」もまた、写真は教えてくれない。もしかしたら、パーティーの席の戯れ言に撮影された「記念写真に過ぎないのかもしれないではないか。その二人がいかにも恋人であるように親しげに写っているという「判断」はやはり、あやふやな「人間」の眼が行なわなければならないのである。
 従って、ホームズの「写真観」は間違っているということになる。写真の証拠能力など、彼の考えているほど確実なものではないのだ。となると、私達も最初の予想を修正しなければならないのかもしれない。「ボヘミアの醜聞」という作品は、私達の間違った常識的写真観(写真は事実の証拠だ)に基づいているために、写真に関してとくに興味深い論点を提供しているわけでわない、と。しかし、結論を出すにはまだ早い。実はこの作品は、証拠写真を取り返すという中心的主題からは外れたところで、写真に関わる重要な指摘を行っている。それは人間の「見る能力」をめぐる実に興味深い論点である。先の国王との会話よりも少し前の場面で、ホームズは、訪ねてきたワトソンを例によってからかう。ホームズは、彼の部屋にいたる階段が何段あるかをワトソンに聞き、それを知らないワトソン楽しそうに責めるのである(むろん、ホームズは17段と知っている)。

「きみも、見てはいるのだが、観察をしないのだよ。見るのと観察とではすっかりちがう。」
 
 つまり、ここでホームズは、人間の「見る能力」のあやふやさを教えてくれているのである。ホームズのように「眼」を規律訓練しなければ、人間は重要な情報を眼の前の事実からさえ読み取ることができない。人間の「眼」は、そのままではただぼうっと見るだけで、注意深く「観察」することができない無能な器官なのだ。証拠写真とは、この人間の「眼の無能性」という事実を、より決定的に私達に露呈してしまうものだと言えよう。この作品中の写真においても、ホームズは確かめもしないで決定的証拠だと慨嘆してしまっているが、それが間違いなくポヘミア国王その人であり、二人が間違いなく恋人同士であることの「表徴」を写真から読み取ることは案外困難なはずである。実際、私達の多くはワトソンと同様、「見る」だけで「観察」することなどできない凡人なのだから。従って逆説的なことだが、写真とは私達に「見る能力」に関する不安を感受させる装置だと言うことになる。人間は、眼の前に起きている様々な事実を確かに「見て」はいる。しかし何も「観察」していないのかもしれない。写真の近代社会における役割について考えるときには、恐らくこの「眼の無能性」への人間の不安という事実から出発するしかあるまい。事実、この不安を消去するためにこそ、人間は巧みに写真を「観察」するための規格化された分類・解読方法を様々に案出している。むろん、その方法はけっして「眼の無能」を完全に解消するものではないのだが。いずれにせよ次回は、この方法について紹介することから、写真についての考察を始めることにしよう。