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ipmjモノガタリ その2(全3回)
あきらけい
(ipmj主宰者)
群がる人々
当時は、インターネットという言葉すら通じなかった。
Team66は、当時通っていた日本写真芸術専門学校II部(夜間部)の生徒6名で結成された写真撮影グループである。
写真を、より多くの方々に見てもらいたいという願いから、WebSiteは立ち上げられた。
当初から、英語版と日本語版があり、毎月1日更新の月刊誌体裁を取っていた。
表紙を除けば、現在と変わるところは殆どない。
掲載されている写真のサイズ、圧縮率も同じである。
第1号に参加した作家は私も含めて11名。
メニューも、現在と変わりがない。
ただし、Newsの内容は大きく違う。
ここに、メーカー系ギャラリーの情報が写真入りで全部載っていたのだ。
富士フイルム、コダック、ニコン、キヤノン、ペンタックス、ミノルタ、その他もろもろ。
私がプリントアウトを持って、各メーカーを営業して回った。
まず、電話をかける。
インターネットと言っても、なかなか通じない。
欲しいのは、雑誌社に出しているギャラリーのプレスリリースだけだった。
ところが、殆どの所は、実際に会って下さい、ということになった。
プリントアウトの束を抱え、ジーンズでぶらりと会社へ行くと、広い会議室へ案内され、10人以上の前で話しをしなければならないこともあった。
インターネットというアヤシゲなキーワードに対する正確な情報を、各メーカーは欲していたのだと思う。
無料でリリースを流してくれるのなら、と、どこのメーカーもリリースを送ってくれるようになった。
「無料で載せますが、将来的には自社でページを立ち上げて情報を流して下さい」と、必ず言い添えるようにしていた。
Team66は、様々な雑誌に紹介された。
日本経済新聞にも写真入りで載った。
私は、当時最速だった28.8kbpsのモデムを買った。
毎月末の更新には、アップロードに1時間近くかかった。
世間は、ネットバブル前夜な感じだった。
相変わらず私は家賃1.7万円のボロ屋に住み、写真を撮り、印刷会社で働き、コンビニでバイトをしていた。
突然、電話が鳴る。
電子メールだったことも、稀にあった。
連絡をしてくる「知らないヒト」と会って話をすると、タダ飯が食えて酒が飲めた。
ライブドアの堀江社長は「インターネットに出会ったときに金鉱を掘り当てたと思った」と言っていたが、私はそうは思わなかった。
若かったし、写真で食うつもりでもいた。
「アドバイザーとして週3日会社にきてくれればいい」、だとか、「アメリカへ行ってくれ」、だとか、話しは様々だった。
お金に興味はなかったし、四畳半ひと間の生活がいたく気に入ったせいもあって、時々飯を食わせてくれてありがとう、だけだった。
今思えば、この辺りでうまく波に乗れば、今頃豪邸に住んでいたかもね。(笑)
Internet Photo Magazine Japanへ
1996年早々、お気に入りだったボロアパートから立ち退きを迫られた。(バックナンバーに収録されている、まぼろしとなってしまった連載「四畳半に巣くう人々」を参照してね)
印刷会社は、1995年の秋に解雇されていた。同時期、写真の専門学校も卒業した。
この頃、名称を「Internet Photo Magazine Japan」へ改めたような気がする。
Internet Photo Competition 1996という企画もすすめていた。
当時、なにで生計を立てていたのか、今ひとつ思い出せない。
コンビニのバイトがメインだったのは確かだけれど、写真関連の仕事もそれなりにこなしていた。
もともと家賃が安いせいもあって、そんなに働かなくてよかったのだと思う。主食はコンビニからもらってくる売れ残り弁当だった。
アパートの立ち退きは、隣接していた都立和田堀公園拡張に伴うものだった。
一応のつもりで、軽くゴネてみた。
そしたら、3月中に退去することを条件に、立ち退き金が一気に倍になった。
正直に書いてしまおう。
144万円をもらって、新居を探すことになったのだ。
同時期、仕事上で引っ掛かることがあった。
「写真の仕事を出すので、どこか事務所を通してくれ」、と言われたのだ。
相手は、大手広告代理店だった。
どこかの事務所を通すと、何もしないそこが数割ギャラを持って行ってしまう。
直接依頼されることと違いはないのに、である。
結局、そのクライアントとは仕事をすることはなかったが、フリーで仕事を受けるには、色々あるらしいということが判った。
タイミングの悪い(良い?)ことに、知り合いの事務所が、有限会社設立マニュアル本を出版し、一冊くれた。
やばいぞ。
設立解説書と、あぶく銭144万円。
有限会社の資本金は300万円であるが、現物出資を含めれば、そこまで現金はいらない。(60万円までは無審査だし)
実家に電話して、金を借りた。
事務所は、新宿5丁目に決った。
偶然にも、毎月アマチュア写真家の集まりが開かれていたビジネスホテルのすぐ近くだった。ホテルのオーナーは、格安で駐車場を貸してくれた。
知り合いのカメラマンが、格安で車を売ってくれた。(古いベンツのディーゼル)
そんなこんなで、1996年4月23日に、有限会社アクトプラネットを設立した。
話題のライブドアの前身(有限会社オン・ザ・エッヂ)は、その1日前に設立されているし、ヤフージャパンは4月1日設立だ。
インターネットは何か出来るのではないかと、蠢き始めた年だった。
ipmjは、毎月2万ヒットなどという事態になっていた。
付き合いのあった、元アサヒカメラ編集長の谷博さんを編集長に迎えた。
実際には、谷さんは殆ど名前だけで、構成その他も、全て私がやっていた。
いくつもの連載をスタートさせ、ipmjの、もっとも華やかな時代へと突入していく。
この頃は、富士フイルム、三浦印刷、インプレスから制作費の補助をいただき、参加作家に僅かながら原稿料を支払っていた。
そして、ipmjの連載企画がきっかけで、有限会社アクトプラネットは大きなクライアントを得ることとなった。
NTTドコモである。
(つづく)